2011年7月24日

こんな処で、こんな話を聞こうとは

あれは、牛肉の輸入自由化が国際問題になったころですから、もう何年前になりますか。
中国新聞社会部の友人から電話がありました。「おい、見浦君、取材をうけてくれんか」、
中国新聞の連載記事”中国山地”に登場してからは何人かの記者さんと知り合いになりました。その一人からの依頼でした。
何事ですかと聞くと、「アメリカの特派員から依頼されて」とのこと。
即座に断りました。「恥をかかせなさんな、わしが英語が出来ないことはよくご存知のはず、真っ平ご免で」

当時は日本の肉牛農家に大問題が持ち上がっていたのです。それは牛肉輸入の自由化。

日本の自動車をはじめとする工業製品が、安くて高品質とアメリカ市場で競争力を発揮、危機感を抱いたアメリカ政府は見返りとして圧倒的競争力を持つ農産物の輸入増大を日本に迫ってきたのです。その一つが牛肉輸入の自由化、広大な農地と一農場が何万頭という規模、それに対する日本は零細な農場で10頭余りも飼えば大きな農家といわれる畜産業、結果は最初から決まっていると、死活をかけた反対運動が全国の肉牛農家に起きたのです。

S記者は言葉を続けます。
「あがー(そう)いいなさんな。向こうの依頼は面白い農家を紹介してくれとゆうんじゃがの、優秀な農家はぎょうさん(沢山)知っとるんじゃがの、面白い農家はあんただけなんよ」
「甥坊にハーフのカナダ人がいての、わしが英語ができんでえらい苦労したけーの、真っ平御免なんよ」
「そこは心配いらんよ、優秀な通訳を連れていくけぇ、助ける思うて受けてくれや」
「そこまで言うんなら今回だけやで」

当日現れたのは記者さんと背の高い外人さんの2人、約束が違うと思ったら、外人さんは流ちょうな日本語を話す。聞けば東大の新聞学科に留学中とか、サイドビジネスで特派員をやっていると。
彼の名前や会社名は聞いたと思うのですが、その後の議論のショックで定かな記憶がない。確かなんとかジョージだった気がするのですがね。

彼は開口一番「牛肉の自由化はどう思いますか」と聞いてきた。
私が答えたのは「賛成ではないが、反対はしない」でした。
それを聞いて彼曰く、「この話で牧場関係者に意見を聞いて歩きましたよ。でも全員が絶対反対と答えました。貴方のような意見の人は一人もいませんでした。その理由を聞かせてください。」と食い下がってきたのです。
「お答えしてもよろしいのですが、それには私の歴史観から説明しなくてはなりません。長くなりますが、よろしいですか。」
「結構です。聞かせてください。」

秋の小春日和の午後でした。庭石に腰掛けて、話し始めたのです。

「初めにお断りしておきますが、私は初等教育しか受けていません。申し上げることが我田引水で正しい歴史観から外れているかも知れません。あくまで山奥の農夫の戯言と聞き流してください」と前置きして。

・・・
私の先祖は関ヶ原の戦いで西軍に属し、負け戦の落ち武者狩りに追われて中国山地に逃げ込んだと聞いています。各種の文献によれば、当時の日本の人口はおおよそ2700万人、それから徳川幕府が270年続いて完全な鎖国政策を敷きました。300年後の明治初期の人口は約3000万人といわれています。内戦も外国との戦いもなかった幕府の政権の下で人口がほとんど増えなかった。もちろん新しい水田の開発や長崎の出島を通じた多少の技術流入があったにせよ、この間に3000万人にしか増えなかった人口、これが日本という島国が養うことができる人口の限界を示していると思うのです。

ところが、明治維新から日本の人口は急激に増加しました。敗戦時の1億人(植民地の人口を含みます。)この間たったの85年、それから60年あまりで1億3000万人、この急激な人口増加の原因は日本の経済発展によることは誰もが知っています。

しかし、この発展は外国から資源を輸入して、加工して輸出する加工貿易であることは当然のことですが、それが成り立った条件を深く考える人が少ない。自分たちの生存につながる話なのに。

明治維新のときに、フランスは徳川幕府を、イギリスは薩長連合を支持してインドで成功した用に日本の植民地化を期待したとの評論があります。しかし、隣国中国で起きたアヘン戦争の結果を熟知していた日本人は、西郷さん、勝さんの話し合いでの江戸城明け渡しにも見られるように、泥沼の内戦には踏み込まず、先進国に付け入るすきを見せなかった。

それをみたイギリスは、日本を友邦国として育て、東洋の植民地経営に利用しようと方向転換をしたのです。そして結ばれたのが日英同盟。

イギリスと同盟を結ぶということは、その貿易圏を利用できる。すなわち、当時世界最大だったポンド貿易圏が利用できるということだったのです。勿論、幾ばくかの制限はあったにしろ、原料の輸入、製品の販売に大きな便宜を得て、勤勉な日本人の国民性と相まって順調な経済発展をし、当時の世界五大強国の末席にまで駆け上がったのです。

その日英同盟の最大の恩恵は、明治37、8年の日露戦争でした。北の強大国、帝政ロシアは東洋での植民地拡大を狙ってシベリヤから南下をはじめました。極東での不凍港を求めて。
そして、日清戦争で日本に敗れて混乱する中国から、シベリヤから東シナ海の大連に至る鉄道の敷設権をえて、鉄道の建設が始まったのです。わずか10年前の戦争で国力を使い果たしていた日本が恐怖したのは言うまでもありません。

僅かな日本の権益も侵害されて、日本自体の植民地化の危険さえ感じたのかもしれません。そして開戦やむなしの結論が出ました。
しかし戦うためには膨大な資金が要ります。工業が発達初期の日本では新型の兵器は外国から輸入しなればなりません。大砲も弾薬も一部しか自給できません。兵器の輸入のための資金は国債を発行して資金の豊かな外国に購入してもらおうとしました。
しかし東洋の小さな島国、当時GNPがロシアの1/6で有色人種で新興国の国債は信用がありませんでした。負ければただの紙切れになる日本の国債の購入は、万に一つの大ばくちですからね。
当時の蔵相高橋是清の奔走があったとはいえ、その国債を売りさばいてくれたのはロンドンの金融街シティー、おかげでなんとか戦費を調達できた。

貴方は日本海海戦で東郷元帥率いる日本海軍がロシアのバルチック艦隊を全滅した大勝利の話は知っているでしょう?昔の教科書では東郷元帥の名指揮と日本海軍の猛特訓の成果だと教えられました。アドミラル東郷の名は世界に轟いたと。何も知らない子供は精神力がロシアの大艦隊をせん滅したと信じ込んだのだから恐ろしいい。この思い込みがアメリカとの戦争に竹槍で戦うことにつながり、本気で竹槍訓練をしましたから、歴史の改竄ぐらい悪質な罪はないと思うのです。
私は読書が好きですから日本海海戦の大勝利に日英同盟の恩恵をまともに享受した日本、それを日本側に都合のいいように捻じ曲げた義務教育の歴史の教科書にたどり着いたのです。

イギリスは当時世界最高と称されたアームストロング砲を日本に軍艦に搭載してくれましhた。しかも最新の戦術を開発した海軍大佐を日本に派遣、その理論を詳細に提供してくれたのです。
次にバルチック艦隊がヨーロッパから極東に航海する経過を世界に散在していた植民地から日本に通報していたのです。

初戦に日本がかろうじてロシアに勝利して旧満州国で追撃し、奉天で軍隊の再編成のために整然とシベリヤに撤退していくロシア軍を、弾薬の不足からただ傍観するしかなかった日本軍。それを見たイギリスはアメリカと計って戦争終結の圧力をロシアにかけてくれたのです。これが日本の窮状を救った。持久戦になり長引けば国力が尽きていた日本はひとたまりもなかったでしょう。

もちろん、権謀術数の国際政治の世界、善意だけで物事は成立しない。かの国の利益につながる思惑があったことは否定しませんが、少なくともイギリスは日英同盟にしたがって行動してくれた。その結果、日本はロシアの植民地にされることはなかったのです。

しかし私が教えられた日露戦争の歴史はこの点に全く触れていない。日本人が勇敢で国民が総力を挙げて戦って得た勝利だと、情報の少なかった当時の日本人は政府の見解をうのみにするしか方法がなかった。

日露戦争後10年ほどして第一次世界大戦がおきました。
ドイツ、オーストリア連合と、イギリス、フランス、アメリカなどの諸国が世界を二分して戦った戦争です。日本も日英同盟にしたがって参戦したのです。
戦争は長期戦になりました。ドイツとフランス国境付近に気付かれた塹壕で持久戦が始まりました。映画「西部戦線異状なし」で日本人にもよく知られています。
戦車が登場し、毒ガスが使われ、次々と投入される新兵器、人的物的資源の果てしない消耗戦は本国が小さく人口が少ないイギリスには大きな負担でした。
そこでイギリスは友好国に協力を要請したのです。

お金持ちのユダヤ人には戦争終了後ユダヤの国を作るという約束で戦費の拠出を、植民地インドには戦後の独立と引き換えに義勇軍の派遣を、日本には日英同盟にしたがって陸軍一個師団のヨーロッパ戦線投入を要請したのです。

大戦の終了後、約束の履行を迫ったユダヤの建国は先住民のアラブの激しい抵抗を引き起こし、現在のイスラエルとパレスチナの紛争となり流血が続いています。
一方独立を期待して義勇軍を送ったインドへの約束不履行はガンジーの独立運動につながりました。これらのイギリスの不誠実は日本の歴史教科書の中で協調されました。

が日本はどうしたのか、「外国の戦争に日本人の血は流せない」と、東洋にあったドイツの植民地を占領することでお茶を濁したのです。ユダヤやインドと違って、日本は日露戦争で借りがあるのにも関わらず、前述の政策で逃げたのです。
相手のイギリスの立場から考えると日本の態度は不誠実、かつ信頼できない相手になったと認識されても仕方がない行為でした。

日英同盟は一年の予告期間を守られれば、一方的に廃棄出来る条項がありました。これに基づいてこの同盟は英国側から破棄されたのです。

日本は明治政府以来の政策で重工業の導入、加工貿易の拡大で国力の増大を計ってきました。
加工貿易は原料の輸入と製品の販売があって初めて成立します。ポンドの貿易圏の利用が難しくなった日本は世界の中で様々な妨害に直面しました。

そこで為政者は考えた。それなら独自の経済圏を作ればいい。そうして当時軍閥が割拠し、国として混乱の極みだった中国への侵略がはじまったのです。それが日本の歴史上はじめての敗戦になった日米戦争につながるのです。

明治維新後に国民が営々として築き上げてきた資産も領土も失って膨大な死傷者を出し、周辺の国々に多大な被害をもたらした無謀な戦争は、自分の利害だけを考えて友邦国の信頼を裏切った日英同盟の破棄から始まっていると思うのです。

牛肉の自由化の問題は日米の国際問題、輸入超過で貿易赤字のアメリカが収支のバランスを目指して得意の農産物の輸出拡大を計る、当然のことです。
それを自国の都合だけで一方的に拒否するのは信義に悖(もと)る行いだと思うのです。
交渉して譲るべきところは譲り、妥協点を探す、それを最初から全面拒否することは間違いです。まして、軍事を含めあらゆる点で緊密な関係にあるアメリカで牛肉で敵対するのは決して国益にならない。
ましてアメリカ、イギリスの政治の中心民族であるアングロサクソンを敵に回すなど、日英同盟破棄の愚を繰り返すようなもの、たかが牛肉で同じ間違いを犯してはならない。
私はそう思っています。

・・・・

そう申し上げたのです。

ところがこれを聞いた特派員氏の反応がすごくてこちらが驚いてしまいました。
彼曰く、「こんな話を日本で聞こうとは思わなかった。それも東京ではなく広島で、広島市ではなく山県の戸河内(現在の安芸太田町)で、それも町なかではなく町境の山のなかで、しかもお百姓さんから。」

そして、今度は自分の話を聞いてくれと話はじめたのです。

彼はアイルランド移民の2世で、母国がイギリスの植民地で200年も苦しんだことを子供の時から繰り返し聞かされた。その植民地政策が過酷そのものだったと。
しかし移住先のアメリカで苦学してハーバード大学に入り、アングロサクソンの友人が数多く出来た。彼らと付き合って感じたことは、この民族の政治感覚が素晴らしいということだった。
イギリス(政治の中心はアングロサクソンが握っている)の植民地政策には批判はあるものの、かれらの政治能力の高さは認めざるを得ない、そう思っていた。
それと同じ意見を日本の、こんな山奥で農民の貴方から聞こうとは。。。。と。

それからいろんなことを話した気がします。気がつくと夕方、肌寒くなっていました。
S記者がアイルランドが植民地だったとは知らなかったとつぶやいたのを、特派員君が猛然と勉強不足だと抗議したのを覚えているくらいで、後は何を話したか記憶にありません。
私の歴史解釈が外国人に認められたショックで、他のことは記憶が出来なかった。

帰り際に「忘れるところでした。今日の目的は牛肉自由化でした。反対しないと言うなら、どうやって競争するのですか、聞かせてください。」と。
そこで「消費者の声をより多く反映することが競争力になると思っています。お国の方は太平洋の彼方から日本の消費者を見る、私は2時間の距離で100万人の消費者と接触できる。これを武器にしようと思っています」と答えたのです。

しばらく考えていた彼は、「今日は勉強になりました。お礼にアメリカ農商務省が抱えている問題を1つだけお教えします。対応する時間はまだあります。頑張ってください。」

5-6年前、退職したS記者が訪ねてきました。昔話の終わりに「外人を連れてきたことがあるけど覚えているかい」と聞きました。「覚えているよ」と答えたものの、あの出来事が私の人生の勲章だったことは胸にしまっておきました。

「こんな処で、こんな話を聞こうとは」は、わたしへの最大の褒め言葉だったのです。

2011.5.5 見浦 哲弥

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