2016年12月14日

愚弟賢兄

2015.8.21 中国新聞に中山畜産の近況を報じた記事があった。従業員632人、牧場が福山、笠岡、真庭の3箇所、直営の店舗が8箇所、年間売り上げが133億円、飼養頭数が8000頭、日本でも有数の巨大牧場であると。お隣の島根県にも同じ規模の松永牧場がある。見浦牧場のようなミニ牧場から見ればたいそうな大牧場である。

ところが創業者の中山伯男さんは私の兄弟子になる。確か私より10歳くらいの先輩のはず、当時油木の種畜場の場長だった榎野俊文先生の門下生。

和牛飼育に取り組んだのも殆ど同じ時期、教えを頂いたのも同じ先生、が、歩いた道は環境も考え方も天と地ほど違った、今日はその話をして見ましょうか。

榎野先生は中島先生の部下、その出会いは”中島健先生”で書いた。当時、油木の種畜場の場長先生だった。福山の奥にある種畜場には勉強のために何度も通ったんだ。油木町と戸河内町は県の西と東の端にある、広い広島県を横断するのは道路事情が良くなかったあの時代では、とんでもない距離だったんだ。
でも、まだ若かった私はカローラの中古車を駆って何度も訪問して教えを請うたんだ。

時は役牛だった和牛が肉用牛と変身を始めた時期、目標は一日増体量が700グラム前後の能力を海外並みの1.1キログラム以上に改良することと、1-3頭の飼育規模を10頭以上に拡大すること。そうしなければ生き残れないと、畜産の専門家が考え始めた時期、経済が拡大して外国貿易が盛んになれば、外国産牛肉の輸入の拡大で国内の肉牛生産は一敗地にまみえると、国も県も担当者は本気で考えたのだ。

そして広島県が考えたのが放牧一貫経営、親牛10頭を基本として育成牛、肥育牛など30頭を1セットとして飼育するシステム、繁殖と育成は放牧飼育、肥育牛は屋外のパドック牛舎、これが基本のシステムで油木の種畜場で試験飼育が始まったのだ。

規模は3セット、計90頭、牧草畑10ヘクタール、これを作業員2名で管理運営する、機械設備は20馬力の国産トラクターと作業機一式、試験期間2年で始まったんだ。その最高責任者が榎野俊文場長、私は熱心な民間人の弟子、記憶が消えたところもあるが、そのようなプロフィールだった。
勿論、何度も見学と学習に通ったのはいうまでもない。

同じ頃、榎野先生のところに牛のことで教えを請うた人がいた。確か福山近辺の人で40歳ぐらいではなかったか、学ぶにつけて自分の年齢では普通の方法で学習するには時間が足りない、現場で実習しなければとてもついては行けないと、屠場の見習助手になったと、先生が楽しそうに話してくれたものだ。ところで助手は屠場では最下級の職種、命のやり取りの職場だから極度の緊張の世界、ミスでもしようものなら年齢など人間扱いなど微塵もない、そんなところに40男が勉強すると飛び込んだのだからと、先生は話す、それが中山伯夫さん、現在は日本でも指折りの牧場に成長した中山牧場の社長さんなのだ。彼が榎野先生の民間の1番弟子で私が2番弟子。

ところが1番弟子は偉すぎた。彼は成功して日本でも有数の牧場主になったのに、私は50年余りも夢を追い続けても、いまだにゴールは遥か雲の彼方、人に誇るべき成果はまだない。ただ、榎野、中島先生の一貫経営の夢を日本でただ1人、追い続けている。両先生にあの世でこの報告したら喜ばれるだろうな、が、私の唯一つの成果なのだ。

遠い日、榎野先生の門を叩いた2人の青年、天と地ほど違った結末は愚弟賢兄の見本のようなもの、勿論、愚弟は私なのだが。

2016.1.29 見浦哲弥

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