2010年1月14日

岡部先生

あれは見浦牧場と義弟の田尻の牧場に、それぞれが和牛を10頭余り飼っていた頃ですから昭和45年前後だと思います。
50歳くらいの紳士が訪ねてこられました。「牛が放してあるのを見たので、どんな考えで飼っているのか話を聞かせてほしい」と。
てっきり新聞社の記者さんだと思い込んだ私は、「取材はお断りしています。」と申し上げたのです。
実は新聞の取材では苦い思い出があったのです。

この地方は中国新聞のエリアで、数年前、中国山地という連載記事がありました。
どういう経緯で取材にこられたのか定かではありませんが、当時義弟の弘康夫婦と共同経営していた和興兄弟農園を取材され、記事になりました。
農業部門をすべて統合して月給制、原則時間から時間の労働、4人の協議による経営方針の決定など、文字だけ並べれば理想の経営ですが、現実はそんなに甘くはなく、厳しい毎日だったのです。
それがちょっとした心の食い違いから崩壊するのは一瞬でした。なにしろ14歳のときから働きづめの私と、農業高校で習った教科書の農業を信じ切っていた義弟では初めから無理な協業でした。
問題を抱えながらの和興農園の記事は好意的な記事となって新聞に掲載されました。しかし、1年もたたないうちに崩壊したのですから、私にとっては苦い教訓となったのです。

ですから、紳士が「どうして取材を断るのですか?」の問いに、「農業は1年や2年で答えがでる、そんな考えでは何もできないのです。絵に描いた絵空事は農業ではないと思うのです。20年か30年して、実績をお見せしながら、こうこうです、とお答えをするのが農業だと信じているのです。」と。

翌年、再び息子さんと来場されました。長野の岡部です、と名乗って。
なぜこんな山奥に再度おいでになったのですか、とお聞きすると、実は前年、お宅とお隣とを息子と2人で訪ねたのです。お隣では、農業はすべて農政の責任、農政はかくあるべきと、当時農村にまん延していた農民評論家の考えをきかされました。
ところがお宅では、農業は結果がすべて。実績を見せられないのに、夢を本物らしく話すのは戯言、本当の農民ではない、そう返事をされた。あちらこちらと日本の農村を歩いたが、そんな対応の農民は珍しかったので、詳しく聞いてみたいと再訪することにした」と。

そういえば、私の政治の師、前田睦男先生も同じことを言われたことがありました。「見浦は変わっとるけーの」。
どうも私は変人のようですね。自分では普通の常識人だと信じているのですが。

閑話休題、先生は長野の人。若いときから農民教育に携わって、日本の農業普及員の制度を作ることに関係したこと、農林省の外郭団体に籍を置いて、農業の現場の調査報告をしていることを話されたのです。
しかし、ご自身のことは詳しく聞かせてはもらえませんでした。ですから40年あまりのお付き合いの中でも、先生は正体不明、が私の実感なのです。
ですが、変人見浦の話はよく聞いてくださいました。そして問題だなと思われた点について、ご自身の見聞の中からその答えになる、さまざまな現場の話をしてくださいました。それが私という小さな世界の住人が井の中の蛙にならずにすんだ大きな力になったのです。

それからは、西日本を調査旅行される時は必ず立ち寄られました。愛用のぼろぼろのブルーバードに乗って。
あるとき、私が日本の農民は勤勉だから、と申し上げたら、次においでの時はたくさんの写真を持ってこられました。そしてその中の1枚を示して、「これをどう思いますか」と聞かれました。
その写真には牧草地や畑が延々とはるかな山並みまで続く石の牧柵(?)で囲まれている風景でした。
「これは、畑にあった石ころを拾って積み上げてできた石垣なのですよ。これを作ったのはイングランドの農民。農民はどの国でも勤勉が当たり前。勤勉だけでは競争にならないのでは。」
”耕して天にいたる、これ精なるや、これ貧なるや”、中国清朝海軍の提督が遠洋航海で瀬戸内海の島々を見ての感想の言葉だと聞きました。
世界に冠たる日本農民の勤勉と思い込んでいた私には衝撃でした。農民は何処でも勤勉は当たり前、それなら外国の農民にまさるためには何があるか、学習と新しい発想しかない、そう確信したのです。

もともと考えることが好きな私が情報集めに懸命になりました。読書は当然ですが、それぞれの専門家には年齢の上下は関係なく教えを請いました。そしてその情報を分析して組み立てなおして、家族の意見を聞きました。子供でも真理を突くこともありましてね。
それがこの牧場で話しこむと面白い、考え方の切り口が違う、の原因なのですよ。

あるときはスイスの山岳酪農の写真を見せていただきました。私は、その1枚にくぎ付けになりました。出来上がった干し草を巨大な風呂敷に包んで、急斜面を車のある道路まで引き下ろしている写真でした。
少年時代、向深入と呼ばれた草刈り山から、干草を背負子(オイコと呼んでいました。)で背中に負って運びおろすつらい作業は、何か変わる方法はないかと思案したものです。上り下りの回数を少なくしようとたくさん背負うと膝がガクガクしましてね。却って疲労が大きくなる。ほどほどに背負うと、何回目かの急斜面の登りはものすごく疲れる。ずいぶん考えましたね。
ふと気がついたのは冬に引くそり、あれが使えないか、さっそくテストしました。しかし雪がないので草山でそりをひく、急斜面でも無理がありました。それなら上の梶棒だけなら、とこれはうまくいきました。背中に負う何倍も積んで、二人で(一人は転覆防止のため側面に)斜面を駆け下る、ガクガクする膝に力を入れながら背負っておりる苦しさに比べると天国でした。
ところが再び梶棒を担ぎあげるときは、背負子の何倍もの重量を持ち上げなくてはなりません。苦しかったですね。なんとか方法はないかと考えましたが、それ以上の知恵は出ませんでした。

ところがその写真では、大きな風呂敷に干し草を包んで引き下ろしている。これなら背負子の何倍も運べて担ぎあげるエネルギーも最小、まさに参ったの心境でした。
以来、外国とか、異業種とか関係なく、役立ちそうな技術や方法は積極的に取り入れましたね。
自分たちのエリア外の話でもしらないことは熱心に聞きました。本気で聞くと、相手の人も真剣になって、時には秘中の秘を話してくれる、そんなときは貧乏も忘れました。

ときたま機械の修理を依頼、そんなとき、サービスマンの人が、見浦さんに修理にいくと、仕事を休んで懸命に観察する、疑問をぶつける。教えないわけにはいかないし、教えれば次回は自分で挑戦する、「苦手じゃー」といいながら教えてくれました。日本という国は本当にいい国でした。

貴方はまだ覚えていますか、よど号ハイジャック事件を。赤軍派と呼ばれる過激派の連中が日航機を乗っ取って北朝鮮に逃げた話しです。
その時人質の乗客の身代わりになった政府高官が山村政務次官、その彼が農林大臣に就任したのです。
そして、「私は今の日本の農村の実態を知らない、誰か詳しく話せる人を探せ」と官僚に命じられた。そして岡部先生に白羽の矢が立てられた。
「農林省にきて大臣に農村の現場の実情をレクチャーしてくれるように」と指定の時間に大臣室に出頭すると「今日は岡部先生に勉強させていただくので一切の来客をお断りするように」と秘書官に命じられて、その日は一日中日本農業の現況と問題点についての話で費やされたと。

それから私の身辺にも異変が起き始めました。
最初は農林省(今の農水省)課長さんが牧場を見たいと連絡がありました。牧場つくりでいろいろお世話になっているのですから断るわけにもいかずお受けしました。
おいでになったのは、山本さんという課長さん、驚いたのはお供の多さ、肝をつぶしました。岡山の農政局、県庁の畜産課、地方事務所、普及所、役場などなど10台余りの公用車がついてきました。
あきれるや腹が立つやら、国道にずらりと並んだシーンはまだ目に浮かびます。
何を話したかはもう定かではありませんが、和牛の放牧一環経営の思いを述べていた記憶があります。ところが、最後に「見浦くん、金城牧場を知っているか」と聞かれました。”背負うた子に教えられ”に登場する、島根県金城町の大牧場です。5軒の農家の共同経営で自己資本5億円、国や県の補助金が20億円、総工費25億円、牧場面積百何十町歩という大牧場、何回も何回も見学に行った牧場です。
「よく知っています。最初から何回も見学に行かせてもらいましたから。」と申し上げたのです。ところが山本さん、しばらく考えてきかれました。「実は、その金城牧場がおかしくなって、再建を考えているんだ。君ならこんなときどう考えるか聞かせてほしい。」と言われたのです。

どんな人にも物おじしないのが私の身上、そこで持論を申し上げました。
日本列島は北から南まで3000キロ、沿岸から小板のような山地まで1000メートル余りの高低差、地勢学上、牧場ごとに千差万別の条件の違い、だから再建するのなら、一番地域を知りぬいている現場の人間が中心になって再建計画と立てないと不可能だと思いますと。
しばらく目をとして考えていらっしゃいました。やがて「計画の数字がきれいすぎたなー。あれは、お百姓さんではない、県のお役人がつくったなー。」と。

落ち目になった金城牧場の見学には、それきり行けなくなりました。倒産の危機は見浦牧場も例外ではありませんでしたから、落ち目の時に見学に来られるなど、小心の私たちには思っただけでつらい、私たちが嫌なものは他人も同じだと思ったのです。
それから何年かして、もう安定した頃と訪問しました。共同の農家の人は牧場経営から手を引いて一角で養豚に転進していました。豚は和牛より資金回転が速い、資本力の小さい農家には、和牛の多頭経営はもっとも難しい農業部門だったのです。

そして、牧場は島根県の畜産事業団の直轄になっていました。広島県の芸北大規模草地開発の牧場と同じように。

山本さんがお帰りになったあと、今度は広島県から依頼がありました。農林省の課長さんがもう1人話しを聞きに行きたいというが、引き受けてくれるか?
前回の大名行列で懲りた私は、丁重にお断りしました。ところがなんとか引き受けてほしいと強引です。上級官庁からの依頼では無理もありません。再三の依頼に私も本音がでました。前回はお供が大勢いらっしゃいました。お話は課長さんの他、おひとり二人なのに、10何台かの車は税金の無駄遣い、この牧場の生き方に合いませんと。
ところが折り返し返事がきました。その条件をのめば引き受けてくれるかと。そこまでくると、もう断る理由がなくなりました。旬日を経て東京から来場された方々を見て驚いた、課長さんと秘書官と運転手の3人だけ、その時点で私も前向きになりました。

それから半日、一番大きい草地を見下ろす丘に腰掛けて話しこみました。秘書官、運転手さんまで加えて。
見浦牧場のこと、和牛の一貫経営を始めたこと、これからの日本農業のこと、この地帯の農民気質のこと・・・・、話は尽きませんでした。
彼の名は川村さん、私より少し年長の40代から、ものすごく頭の切れる人で、自分の知らないことはとことん問い詰めてくる、変な農民の話しは面白かったのかもしれません。
夕方肌寒くなり始めて、また会いたいと言って帰って行かれました。日本の高級官僚には素晴らしい人がいる、目が覚める思いをしたものです。

それから間もなく県庁から再び依頼がありました。旅費は一切持つから、東京に行ってほしい。そして本省で課長連中の会議でこの間の話しを繰り返してほしいと。
時は建設当初の見浦牧場、猫の手も借りたいほどの忙しさ、でも日本の農業の中枢の頭脳はどんな人たちか、お会いしたら勉強になるだろうなと強く思いましたね。
ところがそれを聞いた家内の春さんは怒りました。勉強は教えられるほうが足を運ぶもの、教えにこいとは本末転倒ではないか、学歴や肩書にひれ伏してきた農民では考えない発想でした。
そして偉くなるつもりなら離婚してほしいと脅されました。
何度思い返しても、家内は女に生まれたのは間違い、男だったら田尻は崩壊ではなく発展中であったろうと思います。天の神様は大変な偏屈者ですね。

次の会においでになった岡部先生に川村さんのことをお聞きしたのです。それによると川村さんは大蔵省のエリート、時は田中角栄氏が自民党の幹事長のとき発表した日本列島改造論が世の中の話題をさらっている時、これを読んだ川村さんがこんな政策をとったらバブルが発生すると反対の論文を発表したのです。後年予告どおりにバブルが発生しました。東京の地価の総額でアメリカ全土が買えるなどと、バブルの幻想に国民が浮かれて経済が崩壊寸前までいきました。
その後始末に膨大な税金と空白の10年という時間を浪費したのですが、それは20年あまり後の話。

その田中さんが大蔵大臣になり大蔵省に乗り込んでくる、貴方もお聞きになったことがあると思いますが、彼は敵味方を峻別することで有名。反対の論文を発表した職員を許すわけがない。心配した時の高木大蔵事務次官は彼を田中さんの目の届かないところに隠すために農林省に送り込んだ、将来日本を背負う人材をみすみすつぶすわけにはいかないと。
ちなみに高木さんは何年かあと、国鉄総裁になって中曽根さんと国鉄民営化に豪腕を振るった人物。

そんな理由で図らずも農業にかかわった川村さんがデスクワークで満足するわけはなく、見浦牧場においでになり、変人見浦の話に共感された。そんな裏話をお聞きしたのです。
そんなこんなで川村さんとの縁は切れました。しかし、彼ほどの頭脳、どこかで噂話ぐらいは聞けるかと思ったのに、3年たっても4年たっても音信はありませんでした。その後、岡部先生が来場された時、川村さんのその後をお聞きしたのです。沈痛な表情で「彼はガンで死んだ」と言われたときは、大切な人ほど早死にすると世の中の無情を恨んだものです。

先生もご高齢になり、従前のように日本中を歩き回れる事が少なくなりました。ときどき届く年賀状でお元気を確かめながら、私の牧場経営に大きな影響を下さった先生のことは、家族全員忘れることはありませんでした。
4年前、先生から若者3人を連れて見学にいくと知らせがありました。嬉しかったですね。見浦牧場の最初からご存じの先生が現在をどうご覧になるかと。

帯広の若者3人を連れておいでになった先生は、昔とほとんど変わりはありませんでした。思わず、「先生、おいくつになられました?」とお聞きしたら「90何歳」と答えられました。
そうして牧場を歩いて、地勢が変わったことを指摘されました。道路工事の残土を無償で受け入れて改良しましたとお答えすると、公共事業と農業を結びつけたか、公共投資と農業投資の連携は社会資本の効率投資の手段だったな、と感心していただきました。

日本の、広島県の片田舎で偶然の出会いから、40年あまりもご指導いただいた、こんな素晴らしい出会いもあるのです。先生が次の時代の農業人を育てようとして目をかけてくださった、ご恩返しは何もできませんでしたが、そのお気持ちは継いでいこうと思っています。そして伝えてゆこうと努力しています。
私の文章をお読みになっている人の中に、明日の日本の農業にいくばくかの関心を抱いていただくなら、先生のお気持ちの一半でも受け止めていただきたいと思います。

今日は、岡部先生と見浦牧場のかかわりを報告しました。

2008.8.22 見浦 哲弥

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