2012年5月6日

金城牧場

金城牧場は島根県の旧金城町にあります。見浦牧場がまだ十数頭の規模だったころに建設された、面積140ヘクタールの大牧場、牛飼いの知識吸収に血眼になっていた私たちが何度も訪れた学んだ最新鋭の牧場でした。それが廃場になり、今年は完全に解体するという。先日中国新聞の社会部長だった島津さんが来場され、人生の集大成に中国山地の近代史を出版する。そのために取材している。でも、調べれば調べるほどこの地方の和牛牧場の変遷が理解できなくなる。どうしてだろうと嘆いていたのを思い出すのです。

私たちが和牛の牧場建設に挑戦をはじめたころ、この周辺でも公営、私営の大小の牧場設立されました。
全国的に紹介されたのが芸北町の大規模草地、4箇所に分断していたものの220ヘクタールの大牧場、吉和村(現在の廿日市市)には農協が経営した、樅の木森林公園の前身の400町歩の和牛牧場、豊平町(現在は北広島町)の20ヘクタールの牧場、等々。
町内の寺領にも20ヘクタールの放牧場を持つ個人牧場が開場されていましてね、小板も60ヘクタールを開墾して和牛を飼う計画でした。そのいずれもが試行錯誤の末に倒産、廃業していったのです。
その中では大規模草地が経営が農協から県営に変わって、一番長く続いたのかな。

これらの失敗を見て始まったのが金城牧場。農民5人の共同経営の形で自己資金5億円、国や県の補助金が20億円、700頭の母牛で子牛から肥育牛までの一貫生産が目標で、前述の広島県の各牧場に比べたら比較にならない近代的な牧場を作り上げたのです。前車の轍を踏まない万全?の牧場をね。
林立するタワーサイロ、清掃も給餌も機械化された畜舎、汚水の草地への自動散布等々、最新の農業機械はいうに及ばず、新築の従業員宿舎まで何から何まで完備していました。制服の若者がきびきびと作業をする牧場は本当にまぶしかった。

最新の農業誌のグラビアが目の前にある。違うのは平原ではなくて、傾斜のある山麓ということと、牛が日本独特の和牛ということだけ、その当時は農業は気象風土の産物で、条件がひとつ変われば仕組みも大きく変わる、変えなければ成立しないということを指摘する人は少なかったのですよ。

でも何かがおかしかった。私の書いた文章に「背負うた子に教えられ」という一文があります。その中に当時小4だった息子の和弥を連れて見学に行ったときのことが記載してあります。抜き出してみましょう。

”その時は、小学4年の和弥が一緒で、曇り空の少し寒い午後でした。金城牧場は牧場とは名ばかりの見浦牧場とは違って、200トンのタワーサイロが立ち並び、最新の外国製の大型機械が勢ぞろいする近代的な牧場、子供の和弥も興味津々でした。

「父ちゃん、これは何?」「これはな、ブロアーゆうて、刻んだ草をあのサイロの上まで吹き上げて詰め込む機械や。あのサイロはな、高さが20メートルもあるんよ。見浦の機械は5メートルも上げると詰まって大変だがな、大きい機械はすごいんよ。」「中の草はどうして出すん?」「一番下にな、アンローダーちゅう機械があっての、掻き出すんよ。ここじゃー、その草をベルトコンベアで運んで畜舎の餌箱に自動的にいれていくんよ。」彼はだまって説明を聞いていました。やがて、おもむろに「父ちゃん、それなら牛の病気はどうして見つけるん?」

衝撃でした。ハンマーで横っ面を張り飛ばされた、そんな一言でした。

その視点で施設を見直すと、なるほど工場のような雰囲気です。この牧場を訪問する度に感じていた違和感はそれだったのです。
命ある家畜を無機物の機械と同じ感覚で扱うのは間違いではないか?
見浦牧場のモットーは「自然は教師、動物は友、私は考え学ぶことで人間である」です。この標語が生まれたのはこの時なのです。"

私たちの牧場では、牛の集団の中に入って比較しながら異常を見つけています。もちろん人間のやることですからパーフェクトは期待できませんが、効率のよい観察方法だと自負しています。
見浦牧場では牛は友人なのですから、事故があれば損益の前に心が痛みます。それが牛飼いなのです。
牛は生き物です。考える頭をもった高等動物です。私たちより知能が劣るとはいえ生き物としては仲間なのです。ただ、家畜として人間が利用させてもらっている、これが私たちの基本の考え方なのです。

そういえば前述の各牧場はいかにして牛を飼って利益を上げるかがすべてでした。近代的な畜舎も省力が主眼で、牛の環境は二の次でした。彼らは生き物、生きるためのの環境は企業経営の利益の追求と共に整備してやらなければなりません。見浦牧場ではそれを自然に近づける、放牧という形で追い求めているのです。

何回目かの訪問のときに、サイロのそばで仕事をしているメンバーの人と話す機会がありました。私たちの質問に答えられたあと、「このサイロの草を取り出す機械がよく故障して」と話始められました。サイロの下に取り付けられたアンローダーが詰まって草が出なくなると。
元々タワーサイロはトウモロコシサイレージの貯蔵装置として開発された機械、それを牧草用に転用するには運用する方法を再検討する必要がある。電気工学を学んだ私にもそのくらいのことはわかります。
「故障すると大阪からメーカーのサービス員が来て何日も修理にかかる。一遍故障すると50万円ぐらいかかっての」と暗い表情で話された、そのときこの牧場は成功しないかも、と漠然と思ったのを覚えています。

その翌年、農水省の山本課長が視察においでになりました。いろいろ見て歩かれ質問され、最後に「見浦君、島根の金城牧場を知っているか」と尋ねられました。「よく存じています。一時間ぐらいの距離ですから勉強のため何度も伺いましたから」とお答えすると「実は経営がおかしくなって再建を考えている。君ならどういう方法をとるか」と聞かれたのです。まだ若かった私は思ったことを素直に口にしました。「日本は南北に3000キロ、高低差1500メートル、そんな様々な条件の中の農業なのです。牧場も千差万別の自然環境の中での経営です。それをもっともよく知っているのは地元の農民、その知恵を大事にしないと再建は難しいと思います。」と「そうか、そう考えるか、手元にある再建計画はきれい過ぎるな。これは農家はかかわっていない、お役人の仕事だな」とつぶやかれたのが印象に残っています。

2-3年して再び金城牧場を訪問しました。県営の畜産事業団に変身した金城牧場に。工場のような牛舎は見慣れた一般的な畜舎に変わって、牛がひしめいて活況を呈していました。しかしそこには私たちが求めていたきらめきも先進性もありませんでした。ただ巨大なだけ。もうここには学ぶべきものはない、そう感じたのを覚えています。

使われずに放置された機械がやけに目に付いた、それが私の最後の印象でした。

帰り際に、気になっていた経営主体だった農家の消息をお聞きしました。係員の方が牧場の片隅の建物を指差して、「あそこで豚を飼っている。豚は牛と違って回転が速いからね。」と。

これが私の金城牧場についての記憶のすべてです。

前述の島津先生の話で思い出して、インターネットで検索すると、島根県が今年中に完全に整理するとありました。Google mapで探すと建物群はまだ残っていました。できれば消滅する前には訪ねてみたいと思っています。見浦牧場の思い出のひとつですから。

2012.1.20 見浦 哲弥

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