2006年5月6日

老いるということ

  私は今75才、いよいよ老いの速度が速くなりました。人生誰もがたどる道、覚悟はしていたものの、現実になると厳しいものがあります。
 まず、体力の衰え、いろいろな物を持ち上げるとき、今日はえらく重たいなと感じるのは手はじめで、やがて上がらなくなる、そして自分の年を実感するのです。
 その体力の衰え以上に悲しいのは、頭の切れです。16才の時、奮起して独学を始めた頃は、苦しみも有ったにせよ、知識が水がしみこむように、頭に入ったものです。電検の3種、2種と 続けてとれたとき、あの理解力の頭は私だっのかと、昔を偲ぶのは年寄りのサガなのでしょう。
 内孫の明弥が今年3才になります。その小さい頭に水がしみ込むように、知識が吸収されて行く。その早さ、正確さ、自分の子育ての時は、生活に追われて、気付かなかった事が、目の前で繰り広げられています。孫達が限られた時間の人生を精一杯生きてくれるように願っています。でも、ひたむきに、前へ前へと生きる事の素晴らしさを、幼子が、後ろ向きになり勝ちな私に、それで良いのかと問いかけているようです。

 若い日に学んだ聖書で、明日のことを思い煩うな。今日のことは、今日にて足れり。と教えられた記憶があります。あの頃、お坊さんの説教をまじめに聞かない見浦は、仏罰が当たると古老達に非難されました。、あの人達は、本当に人生を精一杯生きたのだろうか?。そして人生の終わりを前向きに受け止めたのだろうか?、と先だった、先輩達に聞きたいと思うのは嫌みでしょうか。「年を拾うた、年を拾うた、やれんことよ」と、悔やみ言葉だけの老人にならなかった幸福を孫に感謝しようとおもいます。

 私の友人達も鬼籍に入った人が増え始めました。小学校の、松原の高等科の友も、まして先生方も、徴用で生死を共にした仲間にも、近況を聞くと寂しい思いをすることが増え始めました。人の定めとは言え、命の厳しさを、痛感している毎日、今日も生きているよろこび、精一杯生きることを知る素晴らしさ。
 こんな話の流れでは、順風満帆、不幸を知らない人生のように、貴方は考えるかも知れません。現に私の周りには、「大畠(注:おおばたけ。見浦の屋号)ええことよ、何もかもええ具合で」と皮肉混じりに言われる人が多くなりました。しかし、振り返れば、苦しい事、絶望した事、何度も何度も乗り越えてきました。この世の中には、いいことずくめなど、あり得るわけがありません。私も多くの問題を抱えています。が、心の持ち方が前向きだけなのです。それが、外見をよく見せているのです。
 気持ちが前向きと、そうでないのとでは、困難に行き当たった時の対応にも差が出ます。それを知っていることが、幸せの原因なのです。

 それでは残りをどんな生き方をするか、自分の仕事だけに追われて、,the end、それで、いいのだろうか?それなら、今の能力で何が出来るのだろうか。
 その一つが、同行(注:どうぎょう。地域の助け合いの組織)の再建でした。しかし、これは実際に仕事をしてみないと、完全なものには仕上がりません。そこに持ちあがってきたのが、水道組合の内容の明文化でした。何十年も問題提起をしてきたのですが、仕事が大きすぎて、誰も取りつかなかった、私が請合うとすると、それだけの時間と能力が残されているだろうかと、迷っていたことでした。
 成り行きの勢いで、引き受けはしたものの、案の定、集中力が低下している現在の私には遅遅として進みません。2ヶ月余りして、ようやく全体の形が浮かび始め、文章化を始めた処です。

 思いは、若かりし日と同じですけれど、頭と身体が付いて行かない、それが、だんだん大きくなる、そのギャップと自分の加齢の速度を理解して、効率的な人生の使い方を努力しているところです。 
 それにしても、物忘れは困りますね、もともと、物覚えは良くなかったのが、進行したのですから大変で、眼鏡の置忘れは序の口で、機械の修理中に部品を忘れたくらいなら、我慢も出来ますが、いま、使っていた工具まで見えないとなると、笑い事ではありません。探し物に費やす時間の増えたこと、残り時間が少ないのに、残念無念としかいえません。ちなみに、今日は水道の参考書が見えないのですよ。

 私は、本を読むのが好きです、好きと言うより,生活の一部そんな感じです。ご存知の様に、読書と言う奴は,活字が目に入ると、頭の中にその場面が次々と絵になる,図表になる、図面になる、最近の漫画人種の人には理解しにくいでしょうが、自分だけの挿絵がかけるところに面白さがあるのです。 幼い頃、母が教えてくれた読書の習慣が、私の一生を通じて宝となりました。
 小板に転校してきた時、廊下の書棚に大阪に就職された、藤盛の六郎さんが寄贈された、本や雑誌が放り込んでありました、読む人もいないまま放置されていた書籍は宝の山でした。でも、小板小に在学の2年の間に、ほとんど無くなってしまったのです。あとでトイレットペーパーの代わりに使われたと聞いたときは、・・・・・・・
 戦争中は本を読もうにも、新刊書が手に入りません、時々少年倶楽部を買ってもらうぐらい,それも見る見るうちに薄くなりましてね。それを何度も何度も読み返して、中でも南洋一郎の冒険小説は大好きで、今でも荒筋を覚えています。
 戦後はインフレで本が高く、小遣いがあれば買っていた科学朝日が、朝と夕方では値段が違っていた、そんな事もあったほど、ものすごいインフレでした。
 世の中が安定し始めて、毎月、月刊誌、週刊誌、業務誌,単行本,専門誌,取り混ぜて10冊平均は読んだでしょうか。ある友人が「お前は産まれつき頭がいい、出きるのが当たり前」と評してくれましたが、それは間違い、年に120冊、50年では6000冊にもなりますから、なんぼ馬鹿でも少しは知識が広くなります。でも読書が苦にならないと言う事は素晴らしいことでした。

 私は外国に行った事はありません、国内も北は金沢,南は福岡、東は高松までの狭い国内で人生を終わろうとしています。でも外国を知らなくても,読書、新聞、テレビなど情報を集めるには苦労のない現在,案外正確に世の中を見ている、そんな自負があります。 

 こんな話があります。

 今から10年以上前、牛肉の自由化の問題がおきました。零細な日本の肉牛生産者は、二桁も三桁も規模の違う海外の業者に太刀打ち出来るわけがないと、猛反対が起きました。規模の大小を問わず、肉牛生産にかかわっていた、農民,生産者の足並みは揃っていました。
 自由化の決まる数年前、農水省の、朝日新聞本省デスクの長谷川さんが取材で訪ねてきました。この自由化に対する、現場の農民の声を本にする為に。
 貴方もご存知でしょうが、日本には牛肉の品質を決めるためにサシという基準があります。背骨の尾骨の根元から、6番目と7番目の背骨の間のロース切断面の脂の入り具合と美しさがサシです。肉の切断面が霜が降った様に脂が小さく沢山入った方が高級というわけです。決して肉の味で値段が決まるのではありません。その為には、餌、飼いかた、近親交配、遺伝等々、あらゆる手段が講じられます。まさにコストダウンの逆行です。それが、当時の(今でもそうですが)流れでした。
私は、かねてから食品の基本は安全と味との主張でしたから、その話を詳しくと来場されたのでした。
 そこで、かねてからの持論を申し上げたのです。サシが入る事が高級であると言うのは、消費者の意見だとは信じられない。食品は見た目も大切かもしれないが、1番大切なことは、安心と美味しい事、それに見合ったリーズナブルな値段である事と。それが、記事の中では「サシは消費者の声ではない」と表現されていました。

 広島県では、毎年牛の共例会が開催されます。かねてから、このような会合に疑義をもっていた私は毎回欠場していました。ある年、山県地区からの出場牛がどうしても都合がつかないので、何とかしてくれと、普及所に頼まれました。もう時間がないので、見浦しか頼むところがないと。日頃お世話になっているのですから、困っていると言うのを、むげに断るわけに行かず出場したのです。
 ところが、品評会というと、丸々と肥らせて、磨き上げて毛並みが光っている(整髪料をつけて磨くと言う噂もあります)、知らぬ人間が近ずいても何も反応しない人馴れした牛のオンパレイド。そんな牛の中に、野生に近い放牧牛を連れて行ったのですから、その評判の悪い事。しかも、技術屋さんの指導に反して、独特の交配をした(鳥取の気高号、大柄で骨格が大きい)牛でしたから「あがあなもん、よう連れてきたの」と悪評ふんぷんでしたね。
 おまけに、放牧牛と言うのは、野生に近い性質を持つようにならないと、生き残れませんから、見も知らない人間が多数集まっていれば、恐怖で身がすくんで、おびえてしまいます。逃げ出そうとするのを、角と鼻に綱をつけて無理やり引いて行くのですから、家畜の黒牛だけ見ている人からは、異常な眺めだったのでしょうね。「ありゃ、なんなら」笑いがあがっても無理はありません。
 でもその牛の中に、胴伸びのよさ、放牧に適した脚の太さ、肉量の多い胴の深み、等、私達、見浦牧場の提案がこめられていたのです。たった1人、県の技術員の方が、小さな声で「見浦さん、この牛は大事にしろよ」と耳打ちしてくれました。あれから30年余りの時間が経ちました。今、広島県の種牛作りの端々に、私達が追い求めた形がかすかに見え始めた感じがするのです。

 年を取ると言う事は、長い時間を見たということ、人生の意味に気付くのが早かった人は、より多くのことを知っていると言う事なのです。おかげさまで、私は早めに理解する事が出来ました。多くの先生、先輩のおかげです。しかし、その事に気がついて、後輩にアドバイスが出来始めたら、もう老いが迫っていました。

 最近、三段峡豆腐の岡本君が、口しげく「見浦さん長生きをして下さい」というようになりました、体調の悪化が外貌にまで出始めたのかなと、思っています。
 私は、19歳の時日本脳炎に感染して、九死に一生をえました。しかし、それから、50年あまり、後遺症の頭痛との戦いでしたが、長い間、安定していた痛みに変化が生じ始めたのです。身体の疲労と頭痛が連動するようになりました。一度頭痛が始まると3ー4時間寝ないと元に戻らないのです。今まで経験した事のない新しい症状です。そろそろ、最後の時が近づいているのかも知れません。
 様々な出来事と、私が感じて、越えてきた事柄を書き残し始めたのは、少しでも、あとに続く人のお役に立てばと、思い始めているからです。


私の、死後は、お葬式も、お墓も不用だと思っています。
私の考え方、生き方を理解してくださった方々の心の中が私の住むところと、考えています。迷惑な事でしょうが、1人でも多くの心に住ませて頂きたい。 これは、自然の天地の間で生きた人間の我侭なのです。

 但し、家内の春さんは、猛反対です。人間最後のお葬式はその集団のルールに従う事だと譲りません。後に残された家族の事を考えろ、去り行く者の都合で、残る人間が異端視されるのは、許されないと。
でも、形骸化して、儀式としてだけに存在する、現在のお葬式にはどうしても納得ができないのです。
野村の祖父のお葬式を始めとして、多くの身内を見送ってきました。盛大な葬式、立派な葬式、トラブルを抱えた葬式、スキャンダルを隠したお葬式、・・・・・・・・。
生物の常として、死は当然の事ですが、 別れの時には、何もしないで貴方の心の中の私に話しかけて欲しいと思うのは、我侭ですか?、思いあがりですか?。
取り止めのない事の羅列になりました。今日の話は、これで 終わりします、少しは私の考えが伝わりましたか、また他の時に、お会いしましょう。

2006/5/3 見浦哲弥

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