2013年2月26日

柴栗と鉛筆

私が小板に帰った頃は柴栗の全盛時代、ベテランになると一日に30リットルも50リットルも拾う、ところが私が栗拾いに行くと空の毬(イガ)ばかりで栗がない、たまに栗に出会っても手のひらに一杯も拾えれば大漁、当時は藤田屋の婆様と住福の爺様が小板の名人として存在していた。
2人ともナバ(注:キノコの意)取りも神様で、あやかりたいと思っても遠く及ばない。ある時、名人の技を解説して教えてくれた年寄りが名人の名人たる所以を教えてくれた。ポイントを押さえた話で、目から鱗が落ちた。今日はその話しを。

栗拾いも人に先んじる事が全てで、その為には栗の木が生育するのはどんな所か、何処にどんな栗の木があって、今年の成り具合はと、日頃から観察するのだと言う。名人ともなると「そりゃー、よう知っとるけーのー」。
栗にも熟期がある。早生と晩生と、どんな天候で落ち始めるか、落ちる時間も日によって違うのだと教えられた。
そう言えば、栗林は東南面や北面の表土の厚い肥沃な所でしたね。谷によって差がありましたが、おまけに品種まであって、極めて行けばきりがない。名人はそれを全部頭に入れているのだとか。簡単には名人になれない。

藤田屋の婆様は、その日が来ると暗いうちから目的の林に行って待つ、明るくなると拾い始めて袋詰め、私達が山に入る頃は、袋詰めの栗を自宅に運搬中、大人と赤ん坊の勝負で問題にならない。
雨降りの朝は特に大漁で、そんな日は婆様も拾い残しがある。そんな場所に行き当たったら柴栗の絨毯で小さな栗は無視、そんなことが時にはありました。
それはまさに市場経済の成功条件、頭を使い、苦労をいとわない。誰もが知っていることなのに、気が付くのが少し遅すぎた。お陰で私は人生の終わりでもまだ成功していない。

ところが、世の中は名人の独走を何時までも許すほどヤワではない。20歳ばかり年下の住福の謙一爺様が名人を追い抜こうと登場した。婆様の技術を盗もうと虎視眈々、一寸した世間話にも頭を突っ込んでくる。元々頭のいい婆様、この野郎と気が付いた。
途端に柴栗やナバの話しはしなくなった。そんなことでは謙一爺様はへこたれない。今度はシーズンになると婆様の行動に目を凝らす。ところがそんなことはご承知の婆様、おとりの行動で粕を掴ます、夜明けの暗いうちに家を抜け出す。爺様はさればとて夜のうちから婆様宅が見えるところで番をする。婆様は跡をつけられたと気付くと目的地には行かない等々、丁々発止の知恵比べ。その内に若さの謙一爺様が少しずつ婆様に追いついた。そして小板は2大名人の時代に突入。一般人には運が良ければおこぼれがある、そんな時代が続いたんだ。

一歩先んじなければ何もない、こんなお手本があるのに、やり手を称する連中が、あそこは何々をして儲けたそうな、あいつは何々を売って成功したそうな聞くと、前段がなくて人真似のオンパレード、うまく行かないと運が悪いと他人のせい、そして失敗、倒産、そんな人が多かったな。

たかが柴栗、それでも換金するほど拾おうとすると努力がいる、勉強がいる。
最近は使われることが少なくなった鉛筆は、我が身を削って始めて字が書ける、線が引ける、削らなければ、ただの棒切れではないか。謙一爺様が藤田屋の婆様の行動を夜明け前から見張った努力は、是非はあるにしろ我が身を削った努力ではないのか。

ある時小板では勉強家?と称する人が訪ねてきた。彼は陸軍で下士官にまでたどりついた人、曰く「見浦や、お前は人のやらないことやって辛苦ばかりする。わしゃー利口なけー、人がやって美味いことが判ったことをやる」とのたまった。返事のしようがなかったね。
勿論、最後は倒産、現在は廃屋の痕跡が残るだけ。

今日は我が身を削って、一歩先んじる、市場経済の中で生き残る処世訓の話。

2012.9.3 見浦哲弥

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