2009年9月2日

代用教員

長い人生の出来事で忘れていたことが多々あります。今日はその中の1つの話を聞いてください。

先日、内孫二人を病院に連れていくことになりました。息子は仕事で手が離せず、応援として嫁のお供で私は孫の監視役。
病院は20キロ離れた雄鹿原病院。この地方では60キロ以内の小児科は雄鹿原病院の吉見先生のみ。子供が激減したのですから当然です。
先生は私より10歳ぐらい先輩だったと記憶しているのですが、まだお元気で、見浦家はことあるごとに雄鹿原病院。私も子供も孫も3代にわたってお世話になった、ホームドクターのような関係の先生です。

気さくな先生で、人間性が素晴らしい。身障者の女性を愛されて、大病院院長の父君の反対を押し切って結婚、地方の病院で障害患者のためにつくされた、聞こえてくるのは暖かい話だけ、その先生との会話からの報告です。

「先生、お元気でなによりです。」ここしばらくご無沙汰でしたから、お歳の割にお元気な先生に、お世辞抜きのごあいさつを申し上げると、「2年前に退職したのが、医師不足でまた働いています」と言われました。
先生はしばらく仕事をされた後、思い出したように「見浦さん、確か、代用教員をされた見浦さんですね」と聞かれたのです。
私は小学校しか出ていません。もちろん教員資格はありません。学校で働いたこともありません。先生は誰かと間違えられたのだとそう思ったのです。
が、思い出したのです。あの話だなと。

あれは、小板に松原小学校小板分校があったころ、ダム工事関係のお子さんはもういませんでしたから、昭和35年か6年か。そんな頃だと記憶しているのですが、当時小板分校の藤戸先生から依頼があったのです。
先生は文科系で、理科工作は全くの苦手、冬の間だけその授業を受け持ってもらえないか、子供たちの貴重な時間を浪費するのはみていられないからと。

春から秋まで道路が通行可能な時は、本校から専門の教師が通ってきて授業をしていました。ところが交通が途絶する冬の間は先生が小板通勤するのは不可能に近い。もちろん、全く除雪がされなかった時代とは違って、何度かは交通可能になるのですが、吹雪が始まると1週間も2週間も除雪ができなくて交通途絶。藤戸先生夫妻は教員住宅に居住されていて、女子の家庭科は家内が受け持つので何とかなりそうだが、男子の理科工作、これだけはどうにもならない。見浦さんは電気の資格をお持ちとか、その知識を子供たちに伝えてもらうわけにはいかないか?

私の持っている資格は、電気事業主任技術者の3種と2種、ちなみに3種は工業高校電気通信科卒業の資格、2種は高等工業電気科卒業の資格です。
もともと、数学が好きだった私が、小板脱出のため、6年かけて独学して、ようやく手にした免状でしたが、家を守れとの父の命令で忘れようと努力していた学問。それを役立ててほしいと依頼があったのです。

藤戸先生の熱心な頼みもさることながら、子供たちの時間が無駄になる、という言葉は説得力がありました。自分の独学を振り返ると時間を惜しんで勉強した若かりし日のこと、少年の頭脳にとって、その時間がどんなに貴重であるかを知っている私は、拒絶する勇気がありませんでした。

さて、私のようなものでよければ、と承知して、条件を出しました。理科工作の範囲であれば、教科書にない問題を教えてもよろしいかと。
先生曰く、時間が無駄になるのが怖くての考えだから、貴方の考えで授業をして子供のためになると思う方法で授業してください。
ならば、と考えましたね。子供たちが興味をもって、しかも将来に少しは役立つ教材はないかと。しかも教科書から離れてもよいとお墨付きをもらったのだから、これを100パーセント利用しない手はないと。

当時の小板は農業機械が普及し始めた初期、モミすりや脱穀(稲扱ぎ)が機械化され、子供たちの身近に農業機械を見る機会が多くなっていたものの、大人たちが大切に、難しそうに取り扱う、子供たちが悪戯でもしようものなら大目玉、子供の好奇心が入り込めない聖域でした。どんな風になっていて、どうやったら回るのか、興味津津の世界でした。
10年ほど前の私もそんな事が知りたかったな、そう考えたのです。

ちょうど、三菱の空冷の農業エンジンの手持ちがありました。戸河内にあった吉尾農機店から買った、2.5馬力の小型エンジンが。中古の機械でしたので、何度も分解して構造は知りぬいている。これを教材にしようと思ったのです。

根雪が降って、授業が始まりました。教卓の上に乗せたエンジンを前にして、子供たちに「冬の間、藤戸先生から理科の時間を受け持ってほしいと頼まれました。私は専門が電気工学ですが、子供のころエンジンが回るのが面白くて大変興味を持ちました。そこで、この時間を使って、みなさんにエンジンを教えたいと思います。エンジンが回る仕組みはもちろん、中がどうなっているのか、どんな部品がどんな役割をしているのか、一緒に勉強していきたいと思います。」と。

教材にしたエンジンは、4サイクルの単気筒の空冷。種類や仕組みを黒板で説明する間は、まあ授業だから聞くかという態度だった生徒も、授業が進んで、分解が始まり、部品を前にして仕組みと役割の説明がはじまるとだんだん本気になりました。複雑な機械も分解した部品を1つ1つ手にとって説明を受ければ、誰もがそれなりに理解できる部品でした。
しかし、スパナとドライバーで次々と今まで見えなかった機械の心臓部が出てくる。火花を飛ばすプラグもよく見るとその構造がそれぞれ意味を持っている。その電気を起こす仕組みは、磁石と細い銅線を巻いたコイル。それで電気が起きる。次々と登場する新知識。子供たちの大部分は本気になりましたね。
1月と2月と冬じゅうかかった授業も、分解と説明が済んで、テーブルの上に部品が並べられました。今度はその組み立て。子供たちの目は「ほんまに、しゃーないんかのー(大丈夫なのか)」そう言っていました。実は私も組み立ててうまく回らなかったらどうしよう、内心はどきどきものでしたね。

授業の目的が修理を教えるのではなくて、関心を持ってもらうことでしたから、組み立ては確か2時限か3時限で完了したと記憶しています。そして、いよいよ試運転。”子供たちが注目している。なんとかうまく回って”と心の中では祈っていました。
ところが当人が緊張しているものだから、エンジンも不調。最初はプルプルでおしまい。代用教員の先生が教壇で震えてりゃ世話がない。神様仏様と願った2回目にエンジンに命が蘇ってブーンと回り始めた時は、私のほうが感激しちゃって生徒の顔を見るのを忘れたのですよ。
でも授業が終了してお別れのあいさつをしたとき、彼らの態度は違っていた。そんな感触でしたね。

卒業式の日、畑で仕事をしていたら、学生服姿の上級生4人と出会いました。「卒業おめでとう」という私に「ありがとうございました」と答える彼らの態度が先生に対するそれでした。そう思ったのは、私のうぬぼれでしたか。

それから何年かして、餅ノ木部落の生徒のお父さんに出会いました。開口一番、「おい、見浦君。うちの子に何を教えたのかい。君が教えた生徒が4人も自動車の整備工になったぞ」と笑いながら話して行きました。嬉しそうにね。

50年あまりの歳月の末、思いもかけず、吉見先生の口からでたこの話は、どうして先生に伝わったのかしばらく悩みました。一般に学校の先生とお医者さんがこんなことを話し合う機会が多いとはおもえませんが、藤戸先生が退職されてから伝わったのなら理解ができます。藤戸先生は雄鹿原のお寺の出身、リタイアされてから住職になられました。土地のお寺さんとお医者さん、これなら接触する機会が多くて、こんな昔話が伝わっても不思議はない。こう結論を出したのです。

遠い遠い若かりし日の出来事、その一つがこんな形で蘇りました。まるで昨日の出来事のように。「人の心に住む」というささやかな私の願いが、こんな形で実現していたのかもしれませんね。

2008.9.2 見浦 哲弥

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