2017年5月7日

見浦弥七

彼は私の父である。従って貴方にとっては曽祖父ということになる。先祖というものは若い時は興味がないもので、私も祖父のことにはあまり知らない。まして曽祖父ともなれば、断片的な知識しかない。しかし、その遺伝子は私の生涯に大きな影響を与えたのだから、知らないということは残念なことである。それにようやく気がついた。そこで貴方が私の轍を踏まないために記憶にある父のことを書き残すことにした。貴方の記億の断片にでもなれば幸いである。

彼は明治20年に生まれた。父は弥三郎、一人っ子だった由で大切にされたという。見浦家は彼で8代目、血統が続いた点では小板では最古。ところが伝えられる歴史では2代ごとに栄枯盛衰を繰り返したという家柄、弥三郎は家運を盛り返した人で、弥七の時代は見浦家の頂点の時代、これが彼の才能を開花させた。

貴方は明治政府が初等教育の義務制を施行したことを知っているだろう。国の政策だから小板にも小学校がつくられ義務教育が始まった。明治の初めのことである。小板の小学校跡にある廃校舎は三代目、但し義務制は下等小学校と呼ばれた4年生まで、それからは加計にあった上等小学校に進学したんだ。但しこれは義務教育でなくて授業料が要ったらしい、それも4年制でね。勿論、中学校も高等学校も大学も存在したのだが山奥のどん百姓の小倅が行けるわけもなく、上等小学校で我慢した由。ところが寄宿舎がないので下宿、それでも卒業までは資金が続かなかったとかで2年で中途退学、従って正規の教育は6年しか受けていない。

ところが彼の祖父亀吉はは頭の切れた人で国道建設(191号線)のおり、県のお役人と渡り合って小板の集落をかすめて通す計画を集落を縦断させることに変更させたという、これが旧国道、当時は従前の権利が侵害されると新しい交通に反対する連中が多くて、鉄道が町から離れたところに通ったり、道路が集落を外れたところに建設されたりして後年に問題を残したところが多かったのに、彼は道路から離れた集落はやがて消滅すると、小板の真ん中を縦断させた。お陰で田圃を2分された農家が激昂して殺してやるといきまいたとか。弱小集落の小板が生き残ったのは彼の先見性のお陰だと思っている。ところが、そんな頭が切れる彼が文盲で字が読めない。息子の弥三郎は字が読めるのだが、一言居士(いちげんこじ)で親父のやり方が気に入らない。県庁や役場から文書が来ても「何とか何とかトー」と要点を言うのみ、文意のみでニュアンスも糸瓜(へちま)のない読み方、爺様、大いにむくれたのだが読めるのは弥三郎だけでは喧嘩にもならない。そこで弥七に勉強させて知識をつければ弥三郎に頭を下げずに済むと気がついた。亀吉爺様、家長の権威を発揮してこれからは知識の時代、弥七には勉強をさせると宣言、以来、どんな繁忙期も親父が「勉強をする」と言ったら仕事に出なくて済んだとか、私とは偉い違いである。もっとも頭の良さは、これから話すように抜群で天と地ほどの違いはあったのだが。

昔は満20歳になると兵役が義務で徴兵検査と称して体格検査がある。甲、乙、丙、と区分されて甲、乙に区分された青年は2年間の兵役につく。兵役にも職種があって、兵科というのだが軍隊が進歩するにつれて兵科も増えて、親父さんの兵科は工兵、今様に言えば軍隊の土建屋。
ところで話はもどるが彼は明治20年生まれ、従って徴兵されたのは明治40年という事になる。貴方も歴史で習ったと思うが日本がロシアと戦った日露戦争というのがある。極東に大きな国土を持つロシアが冬季も使える不凍港を求めてシベリアからの南下政策で当時の中国、朝鮮にまで勢力を伸ばし始め、日本の権益と衝突して戦争になった。GNPが6倍の大国と日本が国家の存亡をかけて戦った戦争である。当時、大連の近くにある旅順港はすでにロシアに租借され東洋におけるロシア極東艦隊の軍港として整備されていた。それを守る堅固な旅順港要塞、この攻略に乃木将軍指揮の陸軍が膨大の戦傷者をだしたのだ。当時の日本軍は指揮官が先頭に立って戦う戦法だった。従って将校の戦死者が続出、それを補充するために苦慮したんだ。将校は兵隊と違って養成に時間がかかる。そこで兵隊の中から優秀な人間を選抜して短期間で将校に仕上げる制度をつくりあげて対応したんだ。これを1年志願兵制度という。明治37,8年に起きた日露戦争から2年も経過した明治40年頃は将校の補充も完了していて、士官学校などの養成機関の卒業生などの正規の補充で事足りていたと聞く。ところが優秀な人材を発掘するという、この制度は日本が第2次世界大戦で敗戦になるまで存在したんだ。需要に応じて合格者を増減しながらね。

親父さんはこれに挑戦した。結果はその年、全国で3人の合格者のうちに滑り込んだ。何しろ徴兵されて2年の兵役がすむと階級が一つ進んで1等兵になって帰るのが普通。それからは赤紙と呼ばれた徴兵令状で軍務について階級があがる。ちなみに小板では伍長が最高位だった。当時の若者は小学校の高等科を卒業すると青年団なるものに入団、定期的に軍事訓練を受ける。そのときに在郷軍人と称して昔の軍人が階級章のついた軍服を着て指導にくる。普段は茶店の親父さんが軍服を着ると伍長さん、途端に発言に重みが増す、そんな田舎に2年で将校になって帰ってきたから大変だ。いっぺんに町内の有名人になった。
ちなみに彼の最後の兵役の位は工兵中尉、家の中にサーベル(西洋式の長剣)もあったし軍服もあった。今でも倉を探せば彼が学んだ軍隊の教科書があるはず、手榴弾の製造から爆薬の取り扱い、陣地の建設など興味を引く記述がある。

もともと勉強好きの彼が1年志願の合格で自信をつけた。そして教員の資格認定試験に挑戦したんだ。そして合格したのが中等教員数学科、これが彼に広い世界を見させたらしい。それからは暇があれば数学の勉強、後年、彼が口癖だった言葉は「数学は貧乏人の学問、紙と鉛筆があれば新しい世界をのぞける」と。
勿論、勉強の面白さに取り付かれた彼は小板を脱出、広島の第一中学校に(現在の国泰寺高校)奉職、小板の西岡の娘さんと結婚して牛田に住みついたとか。
当時の大家さんだった岡本のオバサンが言っていた。勉強に気がのると一週間も10日も一言も口を聞かなかったとか。最初の奥さんとは広島で死別。熊本の県立第一中学校に転勤した。しかし、その間の消息は知らない。そして福井の第一中学校(現在の藤島高校)に転勤、私が物心がついた頃は教頭先生だった。ある年福井で陸軍の大演習があり、福井城址にあった第一中学校の校舎が臨時の大本営(天皇宿舎)になって、接待係となって天皇(昭和天皇)陛下のお世話をしたと聞く。彼の口癖は昭和天皇は純真で気さくな青年だったと。後年、第2次大戦に参戦、内外の人々に多大の被害を与えた張本人という巷間の説に賛成の私を叱って、「軽々に人を判断をしてはいけない、彼はそのような人間ではないと教えられた。そして「私は3000人の青年を育てた教育者としての経験からも彼が戦争を指導したということはありえない、私の知る昭和天皇は正義感の強い純真な青年だった」と、この話が私の世界観に大きな影響を与えたんだ。
昭和14年、彼は県立三国高等女学校の校長に就任した。昭和16年、様々な出来事の末の圧力で退職するまでの2年間、私は三国で多感な少年の時期を過ごした。従ってこの頃からの父の記億は伝聞ではない。

三国の2年間で父には大きな事件が二つ起きた。その一つは生徒の女学生と他校の中学生との雑魚寝事件、当時の女学校には不純異性交遊は即退学と校則にあったそうで、それが発覚した。勿論、父は即、退学を申し渡したのだが、生徒の親が地域の有力者で内分にと圧力をかけてきたとか、こんなことが明るみに出たらお嫁に行けなくなる、何とかならないかと。父は校則は校則、たとえ有力者の子女でも特別ではないと突っぱねた。

翌年、三国の汐見というところにあった住居の周りに、目の鋭い刑事と警官がうろつくようになった。後年、父はそのときのことを話してくれたのだ。
昭和15年、アメリカとの国際関係が緊張を始めていた頃、学校に話を聞いてくれと大本教の教祖が訪ねてきたとか、父は外ではと校長室に入れて話を聞いたとか、ところが大本教は戦争反対を主張していた、時の政府、特に過激な軍部の注意団体だったのだ。その教祖を校長室に上げて話を聞いたのだから、尾行が本部に報告したのは言うまでもない。父としては正式に訪ねてきた訪問者に門前払いを食らわす非礼は出来ないと校長室で話を聞いた、当然の行為だったのだが、社会は父の常識の範囲を超えて暴走を始めていたんだ。翌日から尾行と、汐見の家の監視がついた。翌年の学期末、父は教職を辞した。54歳、定年にはまだ時間があった退職の裏にはそんな事情があったのだ。有力者の反感をかっていた父には抵抗するすべはなかったとか。
退職が決まった翌日の新聞には三国高等女学校長、見浦弥七氏勇退と大きな記事、あの勇退の大きな見出しは記億にある。

退職が決まってからの父は原稿書きに没頭したんだ。生涯の勉強課題だった数学の本の、題名は”非ユークリッド幾何学問題集”確かこんな題名だったと記憶している。もう物資が不足し始めていて用紙が手に入らない。ガリ版刷りで外装だけは印刷所の好意で製本してもらった。配達された本の山が玄関に積まれた光景は瞼に残っている。それを友人や学校関係に配って数学者見浦弥七が表舞台から姿を消したんだ。引越しの手伝いにこられた先生に、「父ちゃんが本を出したんだ」と自慢したら「私も貰った」と返事をされて誇らしかった。その年か母が難しい本を出して「これは数学の学会の本、ここに父ちゃんの論文が載っている」と話してくれた、「これで2度目なのよ」と。
この時のことは長く記億にあって後に聞いたら、一度だけ話をしてくれた。「俺は専門の非ユークリッド幾何学でアインシュタインの相対性原理の証明をしようとしたが、どうしても出来なくて、それが残念だった。当時の日本には彼の理論を理解できる学者が4人いたんだが、俺はそのうちに入れなかった」と。

父が小板を離れたのは17歳の頃、それから兵役が終わって一時期小板で生活した時があったが、間もなく結婚、そして広島の第一中学校に奉職し、牛田に居を構えた、出来の良すぎる一人息子のわがままを弥三郎爺様は止めるすべがなかったとか、時おり知人を頼んで様子を探らせたり、生活費を送ったり、陰では随分気を使ったと聞いている。
ともあれそんな按配で親父さんの農業は見よう見まねで経験がない。日本のように地勢や気候が千差万別のところでは耳学問や見よう見まねでは、成果は上がらない。弥三郎爺様、見るに見かねて口に出して意見をしたとか、折悪しく親父さんの退官を聞きつけた神戸の某私学から数学教官として迎えたいと校長さんが、広島からバスで5時間の小板まで訪ねてきた直後、「わしのやり方に文句があるのなら、また学校にもどる」と宣言されて、弥三郎爺様何も言わなくなった。翌年、母(淑)が亡くなって、半年後、弥三郎爺様が死んだ。そして素人百姓の父と小6を頭に5人の子供の大畠の悪戦苦闘が始まったんだ。

大畠に”上殿のオバサン”なる古くから手伝いに来るお婆さんがいた。田植えの季節になると何人かの婦人を連れて現れる、早乙女さんである。そして見浦の田植えが済むと蓑造りの材料になるコウラなる草の採集に来る。大畠には彼女のためのコウラ池(コウラをつけて腐らせるため池)があった。腐って繊維だけになったコウラを綺麗に洗って干して自宅に持ち帰って、冬の間にそのコウラで蓑を編む。北陸の藁で作った蓑と違って、上殿のコウラ蓑は軽くて耐久力と保温に優れて高級品、そんな関係で彼女には父も頭が上がらない、長い間のそんな関係で見浦家の内情は何から何までご存知、私たちが生まれるときも福井まで駆けつけて家の中の切り回しをしてくれた。母が亡くなったときも最後の看病の采配を振るってくれて、まさに身内の大叔母さん、それが父のにわか百姓を見てこれでは見浦家は滅びると感じたらしい。とはいっても子供は小学6年生が頭、他の子供はまだ幼い、そんなことは言っても背に腹は変えられぬと私の特訓が始まったんだ。今でも忘れないのが田植え、泊り込みの五月女さんは夜明け前に苗取りに田圃にでる、したがって起床は5時、朝飯を食って支度をして田圃に出ると、東の空が僅かに白みかける、寒い朝は苗代に薄氷が張っていて、最初の一足は身がすくむ、そんな田植えの季節が始まるとオバサンが「哲弥さん、起きんさいよー」と呼びに来る、父が起きるのは30分後、弟妹が起きるのはさらに遅い、幼い子供の食事を済ませて、親父さんがオドロを(小枝を集めた薪、木小屋という小屋に前年集めて乾かしてある)担いで来て畦道で盛大に焚き火をしてくれる、それが待ちどうしくてね、そこで冷え切った身体を温めて再び苗取り、この頃に地元の五月女さん達がやってくる、9時過ぎに朝飯、一日5回の食事、5度飯という制度、なぜ5度飯なのか訊ねたことがある、答えは貧乏な家庭では朝食を取らずにくる、手伝い先の3度の食事が全てなんだ、漬物と辛い味噌汁のおかずなんだが腹いっぱい食べられることが田植えの手伝いの要件なんだと、年配の五月女さんの間での田仕事は子供ながら社会勉強だった。

閑話休題、そんなわけで上殿のオバサンの教育は尋常でなかった、牛のロープ作りも、夜なべの粉挽きもオトコシ(住み込みの男衆)と同じ扱い、後年兄弟が「兄貴、よく知っているね」と感心してくれたが、それも彼女の教育のおかげなんだ。
当時、見浦家には雌牛、雄牛が一頭ずつ、たてがみが白と茶色の馬が2頭、の計4頭いたんだ。雄牛とは言え体が小さくても気が荒くてね、力はあるんだが言うことを聞かない。お爺さんが見浦で生まれたんだからと飼い殺し状態の牛だったが雄牛だから言うことをきかない。腹を立てると角を下げて向かってくる、住み込みの林蔵さんも雇い人の又一さんも怖がって、結局は小学生の私が使うことに、ムチで叩いたことのない私には仕事を止めようとゴネルことはあっても追っかけれることはなかった。ところが短気な親父さんは、歩かんのならこうするとムチで叩くもんだから、牛君言うことをきかない、仕事ははかどらない。結局、田圃で牛使いは私と言うことなった。動員で家を空けた1年、親父さんは、どうやって仕事をこなしたんだろうね。

とはいえ、私心のない親父さんには集落の揉め事が持ち込まれる。相続の争いから、浮気の始末まで、ただでさえ見浦の仕事が山積しているのに解決に走り回る。自分達が食料が足らないというのに、ジャガイモが少しばかり多く出来たからと疎開した家族に届けさせられたこともある。父が亡くなった後、そこの奥さんから「貴方のお父さんには大変お世話になって」と涙ぐんでお礼を言われた。でも人に迷惑をかけることだけは極端に嫌ったね。そんなわけで見浦家に伝統に従って衰亡の坂道を転げ落ちて、どん底から這い上がるという歴史の繰り返しが起きた。でも、どんな時でも、揺るぎのない信念で生き抜いた親父は私の誇りなんだ。

彼の人生の師が誰かは知らない。見浦家では勉強以外には特別はなかったと、借金の言い訳に新庄(今の北広島町)へ行かされた話は何度も聞いた「旦那さん今年はこれだけしか出来なんだけー、後は来年でこらえてつかーさい」の口上で。その悔しさが弱者への配慮になり、勉学へのバネになった。でも不器用な人だったな。

長々と父弥七の話を書いた。彼の全貌を伝えることは出来ないが一面だけでも理解してもらえたら望外の満足である。彼に較べれば私はとるに足らない人間だが全力をあげて生きたことだけは認めて欲しい。そして彼の遺伝子が私を経て貴方にも伝わっていることを忘れないで欲しい。

人生は長いようで短い。認められようと、認められまいと、全力で生きる。それが自然を神とし、父を師として生きた私からの伝言である。

2016.1.11 見浦 哲弥

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