2008年9月6日

ワンチャンス、ワントライ

 私は、3人の女の子と2人の男の子の子宝に恵まれました。その子供たちは、広大の理学部、同総合科学部、九大農学部、愛媛大学教育学部、井口高校(この子は私が過労で体調を崩して、進学をあきらめてもらいました。担任の教師に、なぜ大学に生かせないのかとずいぶん説得されました。国立一期校の現役合格の可能性を持つ子の将来をつぶすのか、とね)を卒業しました。
 私の家庭は他の文章で何度か紹介したように、見浦家(戸河内町では小板の大畠は旧家の端くれでした)のどん底からスタートしたのです。そんな私と自分の意思で人生を共にする道を選んだ、家内の晴さんは、ずいぶんな物好きだったと今でも思っています。

 当時は、小板も若い人が多くて(長女は22歳のときの子供)よく集まって議論しました。敗戦でそれまでの軍国主義が一変して民主主義に、長老支配が多数決政治に変わったのですから、事ある毎に議論が紛糾しましてね。子供の家庭教育もそのひとつでした。

 私が小板に帰ったときは、小学校は餅ノ木の生徒を含めて27人、樽床ダムの工事が始まってからは工事関係者の子弟も通ってきて70人を超していました。もっとも新制中学校が併設されていましたが。
小板集落の生徒が半分以上でしたから、各家庭は子供5人6人の子沢山でしたね。ですから子供の事は共通の話題で、よく議論の種になったものです。

 曰く、「子供は親の都合で生まれてきたのだから、借金しても悲しい思いをさせてはいけない」「高校ぐらいは卒業させなくては世間体が悪い」等など、戦前の地主制度に苦しみぬいた農民が、農地解放と高米価と好調な林産物の売れ行きに、子供たちには自分たちの辛い思いはさせないと、考え出した理屈のひとつでした。でも、その論理は、自分たちの都合で作り上げた、身勝手な考えでした。

 私は、たとえ家庭という舟が泥舟であっても、乗り合わせた以上、沈まないためには貧乏に耐え、苦労を分かち合って目的地に着く努力を全員でする、それが当然のことではないか、と主張したのですが、見浦は子供のことを考えていない、かわいいと思わないのかと笑われました。

 私は、それならわが道をいくと、長女の祐子に申し渡したのです。
「今、見浦はこういう仕事をして、年収がこれぐらい、支出がこれぐらいで食べていくのが精一杯。だから他の家庭のように、進学は当たり前、ということはできんのよ。」と数字を挙げて説明したのです。
彼女が小学校2年か3年生のときです。子供ではなく、大人に話すように。理解はできなかったでしょうが、私の真剣さはわかってくれたのでしょうね。最後は彼女も懸命に聞いてくれたことを覚えています。
 「でも、おとうちゃんは家にお金がなくて進学できなくて、悔しくて悔しくて独学をして資格を取ったけれど、勉強がしたくても進学できない悔しさは今でも心に刻み込まれているんだ。だから、上の学校に行きたかったら、1回だけチャンスをあげる。国公立の高校、大学に1回で合格したら、どんな苦労をしてでも行かせてあげる。これはおとうちゃんの約束。」 懸命に聞いていましたね。昨日の事の様に瞼に浮かびます。

 それからの彼女は勉強の態度が違ってきました。他の子供たちと微妙に差が出始めた気がしました。私の子供ですから、特別の頭を持っているわけではありませんが、自分のために勉強している、そんな感じでした。

 中学は戸河内中学でした。進学のとき、こんなことを話した記憶があります。
「分からない事があったら何べんでも聞きなさい。知らないこと、分からないことは恥ではない。聞かないこと、理解しないことが恥なの。担任の先生で分からなかったら、他の先生に教えてもらいなさい。事務室には先生がたくさんいるはず。それでしかられたら、父ちゃんが謝りにいってあげる。」と。
 ところが、そんな彼女が半年もしないうちに、勉強ができる、頭がいいと注目されるようになりました。先生方だけでなく、PTAのお母さんの中から、小板の山奥でも勉強ができる子がいるんだと、失礼な発言が飛び出す始末。でも本当のことを知っている人はいなかった。彼女が小さいときから自分のために勉強をしていたということを。

 勉強というものは、どんな目的で、誰のために努力するのかが理解できると、いろいろな事柄が知識として頭に入り始める。これは結構面白いものです。まして、周囲の同輩たちが認め始めるとやりがいまで生じてきます。
 彼女は学区外の市内公立をめざしました。戸河内中学の秀才さんに混じって、3人の合格者の1人として舟入高校に入学したのです。

 高校でも失敗を繰り返しながら認められ始めました。市内の生徒さんにしてみれば、山県の奥から来た山猿に見えていたのでしょうが、やがて本領を発揮、国立一期校受験の1人に選ばれました。そして広大理学部数学科に現役合格をしたのです。
 彼女が広大進学後、初めての帰宅で「父ちゃん、数学は考え方の学問だった」と報告してくれたとき、この子にはもう親としてのアドバイスは必要ではないと安心したものです。

 下の弟妹たちにも、祐子と同じようにその年齢になると同じ文句で申し渡したのです。
 「見浦は貧乏だけど、一度だけチャンスをあげる。上の学校に行きたかったら、自分のために勉強しなさい。」姉の成長を見ていた弟妹は、ねえちゃんには負けたくない、とがんばり始めました。
 これが見浦のワンチャンス、ワントライ教育法の起源でした。
 でも、子供たちが進学を目指して本気で勉強を始めると、約束の手前、私たちも懸命に働いて学資を捻出しなければなりませんでした。
時は見浦牧場にとって開設初期の正念場、子供たちへの月末の仕送りは私たち夫婦にとって大問題、時間よ止まれと何度思ったことか。
子供たちも奨学金の支給を受けるために、懸命の努力で成績を上げなくてはなりませんでした。

 祐子が50歳代になり、あの困難の時代も遠い思い出になりました。
 そして人生そのものがワンチャンス、ワントライなのだと、理解できるようになりました。

 今でも「見浦の子は頭がよくて、勉強ができて」と、子供たちの同級生の親御さんに話しかけられて驚くことがあります。実はこうこうなのでと、内輪話をしたくなります。しかし、若いお父さん、お母さんには必要な話でも、同年輩では茶飲み話の話題には重すぎます。もはや私の時代は過ぎたのです。

今日は、見浦のワンチャンス、ワントライ教育法の話でした。
では、また。

2008.2.8 見浦 哲弥

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