2012年9月9日

穏亡の大将

物心がついて70年余り、お葬式の風景も変わりました。今日はここ小板の火葬の話をしましょう。そして私が”穏亡の大将”と呼ばれた理由も聞いてください。

私が子供の頃、すでに葬式は火葬が常識でした。ところが16歳の時、小板神楽団に入団して中国山脈島根県側の臼木谷のお祭りに呼ばれたことがありました。先輩にここは土葬でねと、教えられました。まだ土葬の所が存在していたのです。

好奇心の見浦の記憶の中に初めて火葬場が登場したのは、小1の時、福井市の郊外にあった競馬場まで足をのばし、帰り道迷い込んだ小さな小屋が火葬場でした。大きなかまどがあって轟々と火が燃えていました。変なにおいに気付いた友人が火葬場だと声を上げ、悪童ども(私を含む)が悲鳴を上げて退散したのをおぼえています。

次が広島で母が亡くなって、広西館(字は当て字です)でお骨にしたのですが、大きな火葬場でした。お棺をレンガ作りのかまどに押し込んで鉄の戸をしめる、母がこの世の中から消えていった瞬間は、今でも瞼に残っています。確か重油で焼くのだと大人が話していた、焼きあがったお骨が微かにくすんでいた、そんな記憶もあります。

翌年、祖父が亡くなりました。それが小板のお葬式の初めての体験でした。そして藁焼きと称する、小板(この地方かも)独特の火葬を見た最初でした。
休火山の深入山の火口からの深い谷が小板側にえぐられたように刻まれている、その先端が血庭(幻の古戦場に登場します)、血庭の最上部の林の中に、その火葬場がありました。少し盛り上がった丘の上の直径2メートル深さ50センチばかりの穴が火葬場、小板の住民は誰もが最後に訪れる場所でした。

血庭は昔から蕨(ワラビ)の良く生えるところ、蕨取りに夢中になって、太い美味しそうな蕨がエットあるのーと気がついて見ると火葬場に近く、あわてて逃げ帰った事が何度かありました、。葬場の灰が流れ出て肥料になって蕨がよく出来ていたのです。

私は19歳から見浦家の代表として部落の出役を務めました。お葬式も人夫としての役割が回ってきました。新人は焼き場(火葬場)の人足と決まっています。見ること聞くこと新鮮で知らないことの山積みでした。好奇心の私ですから嬉しくはありませんが興味深深でしたね。
野普請とも野武士とも言われたこの役には6-8人が割り当てられ、年長者が頭を勤めることにはなっていたのですが、上手下手がありまして時々生焼きを製造する、そんな最下層の野武士を志願する人はいませんでしたね。
お葬式は願人(ガンジン)が一切の指揮をしておこないます。願人は不幸の出た家の両隣と決まっていて、必ず二人、適不適があるものの、お互いに補なって何とか運営してゆく。それでも前の切れない人が願人の時は、デボウサゲ(でしゃばり)のサイチンヤキ(世話焼き)がイレジョウネ(入れ智恵)をしてテンヤワンヤ(右往左往すること)でした。
葬式での役割は、願人、大工、帳場、板場、野武士、飛脚、小走り、等々、役割や呼び名の記憶は、もう定かではなく、呼び名がまちがっているかも。
でも今日の話は穏亡、野武士です。こちらはよく覚えていますから。

さて、お葬式の役割の中で穏亡(野武士)は最下位の役割とされ、何度も続くと憤慨する人もいましてね。新人と役割で残った人が穏亡と決まっていましたが、さすがに婦人や老人には振り当てはなかった。
勿論、新入りの私は先輩の野武士の指図で火葬場までの道刈り、藁集め、お棺の運搬の準備(夏は荷車で、冬は橇(ソリ)で、そのうち軽四輪トラックになりました。冬は除雪もありまして、これらが前日の作業、運がいいと仕事は半日でかたずく、ところが棺つくりの大工さん、願人(葬式を取り仕切る)、小走り(雑用一切、家の中の片付け、家の内外の掃除、草刈など、)、板場(賄い方)も豆腐つくりまで入れて3日も勤める、これに較べると野武士の穏亡は2日、それも仕事が片付くと自分の家の仕事をする時間まである、人手の足らない見浦家では、これが魅力で野武士を志願したものです。
同じ理由で奥さんが怪我で面倒を見なければいけないSさんがいつも一緒、彼は20歳あまりも年長だったかな、藁焼き火葬の基礎は彼から学んだ。

藁焼きの基本は蒸し焼き、他の方法のように火力で焼き上げるのではない。体脂肪も利用してゆっくり白骨にしてゆく。大体3時ごろに着火して翌日の10時頃に焼きあがる、ほぼ20時間もかかるわけだ。最新の火葬場では1時間から2時間で焼き上げるのに較べると随分悠長な話だが、当時は時間の流れもゆったりしていた。

火葬の藁はただ並べるのではない。各戸から集められ火葬場に運び込まれた藁は葬儀の当日、野武士が加工する。先ず藁の小束をブッチガイ(束の方向を変える)にして長さ1メートル直径50センチ前後のわらたばを作る。束を作る時5-6箇所を藁縄で堅く結ぶのだが、これが重要で如何に堅く締めるかが藁焼きの成否を決める。これを12-15個つくる。それをお棺の下に並べる。堅く縛るのにこだわるのは、一番後に火が回るようにするため。手抜きをすると、ここに早くから火が回って灰になる。そうなるとお棺の重みに耐えかねて陥没、お棺は転倒して火力の中心から外れて生焼になる。

ある時、自称名家の主人が野武士の頭に指名された。日頃は号令をかける役を渉り歩く彼にどういう風の吹き回しか穏亡が割り当てられた。
年長とは言え火葬の技術は素人、ところが何かにつけて大将の彼は知らないとは口に出来ない。まして昔の小作人や年少者に教えを仰ぐなどもってのほか、野辺送りの光景や、人の話を思い出しながら段取りをした、一緒の野武士も人が悪い、敵討ちとばかり指導も忠告もしない。「ハイハイ」と指示されたとおりに仕事を進めたのだ。見るに見かねて「そこは、こうせにゃー」と忠告したから怒った。一回りもの違う年少者にみんなの前で恥をかかされたとばかりに「いらんことを言うな」。

見よう見まねとは良く言ったもので「野武士は野普請ともゆうての、綺麗につんであげにゃー」と藁の積み上げは見事だったね。ところが肝心の藁の台座が結びの締めが足らなかった。
台座の火の回りが速すぎて最悪事態に、翌朝、骨上げの前に見に行って生焼けを発見、急遽骨上げを午後に変更してもらったとか。勿論、責任は野武士の棟梁にある。願人と3人がかりで、焼き直してお骨にしたとか、野武士の棟梁の役が嫌われるのは、これがあるから。

ところが、どうした弾みか次回も同人が大将、性懲りもなく同じことをする。原因を探すのでなくて運が悪かったと思い込んでいるらしい。見かねて、「そんな方法では又生焼きぞ」と意見をしたら怒った。「そんなら、お前がやれ、生焼きだったどうする」「1人で始末をしてやらー、その代わり言うたとうりにやれ」「その口を忘れるな」。

それで、先輩に教えてもらった方法を忠実に再現した。でも内心は不安でしたね。売り言葉に買い言葉でのタンカですから。翌朝、明るくなるとすぐ火葬場に飛んでゆきました。お天気にも恵まれて見事に焼きあがっていた時は、1人で火葬場にいることも忘れましたね。

自称名家のご主人、「ええ具合に焼けたそうなの」と一言。次回から頭でもない私が火葬場で意見を述べても反論する人はいなくなりました。悔し紛れに彼が私につけた肩書きが”穏亡(オンボ)の大将”。
そんなこんなで火葬場での私の発言は重みを増しました。自称名家氏も火葬場では異論を挟むことはなくなりました。でも”穏亡の大将”の呼び名は定着しました。同席した野武士一同が賛成したからです。以後藁焼きの火葬が続いた間は葬式になると私の呼び名は”穏亡の大将”でした。

やがて稲の転作が始まり、藁が手に入り難くなりました。成人の火葬には最低300キロの藁が必要です。どの家でも年に1-2件ある葬式のために藁を準備して置くのですが、稲作農家が減り始めて集まる藁が少なくなりました。秤を持ち歩いて大きな農家にお願いして確保することもしました。
それに火葬の日が晴天とは限りません。火葬を完全にするために穴の底に木炭を1俵(15キロ)敷くことにしました。これは大成功でした。地面からの湿気を遮断するだけでなく、雨や雪で火力が不足する時も藁が燃え切れてからも火力を維持できて完全に焼ける。それからは生焼けはなくなりました。

話がそれました。藁焼きの話です。穴の底に木炭を1俵を広げます。その上にお棺の長さだけ堅く束ねた藁を並べる。6-7個くらいか、これが土台。その上にお棺を乗せ周りを同じ束ねた藁で固めるのです。それから藁の小束で小山に盛り上げ、天辺に藁帽子を載せて完成。家の屋根に似ているとて人生最後の普請とも言う人もいる。野に作るから野普請、だから段取りをする人足を野普請と呼ぶ人もいる。
綺麗に積みあがったところで身内の人が藁の小束に火をつけて、それで周囲に点火して退場。野武士は藁の小山に完全に火が回るまで番をするまでが仕事。火をつけたら絶対につついてはいけない。これも先輩の教えでしたね。そこから空気が入って蒸し焼きにならずに失敗すると。

やがて米つくりも機械化して秋の風物詩だった稲ハゼが姿を消しました。藁は短く切られて田んぼに放置されるようになりました。若者は都会に、移住をする家も出て人手が足らなくなりました。交通の便利もよくなって町の火葬場を利用することになり、藁焼きの火葬は小板から消えました。

お葬式を終えて、公民館で後始末をしながら、前深入山の麓を流れて行く火葬場の煙を見て「今日の煙は〇〇さんの方に流れるのー、この次はあんたの番かいのー」と冗談を言いながら故人を見送った。遠くなったあの頃、私の頭の中では、まだ昨日の事のようです。
           
2012.6.12 見浦哲弥

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