2017年3月12日

ひろしま

2016.5.27 広島の平和公園にアメリカの大統領オバマさんがやってきて記念碑に献花して下さった。間一髪12時間の違いで命を永らえた私にとって感無量のものがある。

日本が暴走した2,26事件から我が家の近辺で起きた日本暴走の結果、内外の多くの人命が失われた。その張本人の陸軍の急進派の御大は靖国神社神社にいるというから日本人も狂っている。天下の秀才と言われた東条が2000年も続いたという日本を破壊して、他の指導者がそれぞれ自決して自分を裁いたのにピストル自殺の真似事ですまし、責任をヒロヒト天皇に擦り付けようとした、その彼を靖国へ祀るというのだから狂っている。陸軍きっての秀才と言われた彼の生き様は頭でっかちだけでは集団を指導し生き延びさせることは不可能だということかもしれない。自然の中で暮らしている牛群を見ていると利口な牛即リーダーでは牛がうまく育たなかったね。強さと利口と優しさと決断とのバランスの取れた牛がリーダーだと安心して見ていられたがね。

あれから70年、幼いながら戦前の広島を知っているし、(毎年夏休みには親父さんの勤務地の福井から小板に帰省していた。昔は2日がかりの大旅行、必ず広島に一泊した)戦時中の広島も陸軍の幼年学校受験の為、広島で宿泊した。原爆直前の広島に建物疎開の作業で県庁の講堂に泊まって10日ほど働いた。広島の原爆前日の夜広島を離れて辛うじて生き残った、あの一日の記憶は未だ新しい。そして原爆投下の3日後、一時帰宅を許されて帰宅の途中、乗換の可部駅で被災者を見た。駅前の広場や構内の貨車の中に並べられた数多くの瀕死の被災者や、死体を見た。「水、水」と微かに訴える声は未だに耳に残る。数年後小板にお婿さんに来た友人は動員で広島で被災者の死体処理で働いた体験を話してくれた。感情が麻痺して何も感じなかった、そして恐怖を実感するまでには長い時間が必要だったと。

牛田に住んでいた岡本の伯母さんは6日の朝、挨拶をしながら家の前を通り過ぎた人たちが15分もしないのに焼けただれた皮膚をぶら下げて幽鬼のような姿で「水、水」と訴えながら帰ってきた姿を忘れることが出来ないと話してくれた。それは地獄だったと。70年は草も生えないと言われた広島だが私が働いた1年半後,道端には雑草が生え、八丁堀から本道通りには、まばらながらバラックのお店が並んだ。現在、パン屋のアンデルセンのお店になった銀行の廃墟は無残な姿を晒していたが、広島は生きていた。もっともバラックの裏は水道の鉛管が幽鬼のように無数に立ち並び、傷んだ蛇口から水が無駄に流れてはいたが。

お店の坊っちゃんの子守で歩いた道端の本川小学校の地下室にはドス黒い水が溜まっていた。近所の伯母さんが「まだ何人も沈んでいるのよ」と話してくれた言葉は頭から離れない。
早朝、荷物を積んだ馬車が本道りを通る。その馬糞を素早く掃除するのも小僧さんの役目だった。でも日本人は凄い、復興し始めた広島は見る見る変化していった。夜学の途中の広島駅の変化は今でも思い浮かべることができる。でも裏道りは寂しくて怖かったね。
その広島が見事に復興した。廃墟の中にあつた原爆ドームは華やかなビル群に囲まれて感心を持つ人以外、注目をひかない。あの惨劇を思い出すのが8月6日の原爆記念日のときだけ、体験した人以外、あの惨劇は想像出来ないのだろう。

そして私の文章の中でも語られることが少なくなった。でも忘れてはいない。拙い私の文章の中の、あちこちに散見する戦争や原爆への思いを嗅ぎ取ってほしい、そんな気持ちでキーを叩いている。

2016.9.22 見浦哲弥

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