2010年4月14日

天狗松

母屋の後ろの斜面に生えていた老松が枯れました。私たち3兄弟が子供の時にほとんどてっぺんまで登って遊んでいた松、小学生の私たちが2人がかりでないと手が届きませんでしたから、当時でもかなりの年数だったと思うのです。それから70年近くたちました。あまりにも巨大になっていて、除去するにはどうすればよいかと心配をする始末。大きな枝は川のほうに2本も3本も伸び出て、近くから見るとアンバランスの極限、枝の下は車庫、倒れたら即交通手段を失います。「やれんことよの」とため息の連続でした。

ところが平成20年の暮れごろから枯葉が目立ち始めました。今年(平成21年)の6月ごろには青葉が全く見えなくなって完全に枯死。家内の春さんは、早く専門家に依頼して処理しろとせっつくのですが、農山村は過疎と老齢で専門の職人がいなくて、心当たりの人が思い浮かびません。高所作業が専門のきこりさんは友人を含めて何人もいたのに、老齢化で現役ははるか遠くになりにけり、の人ばかり。やむを得ず私が挑戦することにしたのですが、何しろ高い。あの上に上がると考えただけでも心臓をつかまれるように恐ろしい。
が、後始末はどうしても必要。冬になり、積雪で倒れるまでにはもう時間がない。
追い込まれて退化した頭が考えた。老松はもう死んでいるのだから痛くはない。足場の横木を直接幹に打ち付けても痛みはないはず、それなら登れるかも、と実行することにしたのです。

老松といえば私が小板に帰郷した時に、見浦の墓所の後ろに2本の老松がありました。住み込みの林蔵爺さんが「ありゃー天狗松ですけーの、切ったらたたりがあるますけーの」と御宣託、ところがまだ50代だって親父ドン「迷信じゃー」とぶち切ったから大変、翌年の春から母はガンでたおいれる、冬は祖父が老衰で死亡(82歳でした)2頭いた白毛と赤毛の馬と牛が次々と病死、その挙句に親父様、水車の修理中におっこちてけが、往診してもらった戸河内の丸山医師曰く「肺から空気が漏れる音がする、手の打ちようがない。安静に」とのご託宣、意気消沈した親父ドン、子供たちを枕元に読んで顔を見回しながら、「哲弥、お前は長男、後をよろしく頼む。」私は中学の1年生でしたよ。
親父ドンは運よく何日かして怪我が快方に向かって全快、笑い話になりましたが、天狗松といえば思い出します。

今度の松も私にとっては天狗松、枯れ始めてから私の失火、春さんの交通事故、肥育牛の頓死、そういえば焼けた牛舎だけ火災保険が掛けてなかった等等、並べれば結構あります。縁起担ぎだったら「たたりじゃー。」というところかもしれません。

ところが見浦の家族は能天気、人生は浮き沈み、ええ時もあれば悪いときもある、孫を含めて家族全員なんとか元気、プラスマイナスゼロじゃー。おかげで失敗続きの私も頑張っていられます。

今から60年前、日本は無謀な戦争を始めて見事に敗戦、明治の御維新以来、営々と蓄積した資本も資源もことごとく使い果たしました。わずかに残った国内資源の山林も、消失した都市の住宅再建に燃料にと乱伐につぐ乱伐で丸裸になったのです。日本の経済が再建されて都会がみるみる変貌を始めた頃は、小板の山林には100年以上の大木がある山は5本の指で数えられました。
ですから一般に30センチもあれば大木のうち、木材の値段も高騰しましてね。こりゃー山林はもうかる、都会へ出て就職して退職金や年金をもらうよりは造林をして売れる気を育てるほうが正解と山仕事に精を出す友人がいましてね。ところが日本の経済が大発展、世界第二の経済大国とやらになって、国の銀行にはドルがじゃらじゃら、山から木を切り出して製材して使うより、お店で買ったほうが安い、いい品物がそろうと、国民の目が輸入品に向いて、国内材の安値が続きましてね、退職金代わりに杉の木を育てた友人はぼやくことぼやくこと。

2009年8月19日 最後の足場3本を打ちつけました。前日から明日は懸案の老松の伐採処理をするのでと、息子の和弥に協力を頼んでワイヤーの取り付け作業。てっぺんに上がるのは私ですが、下で工具やワイヤー、ロープを供給するのは彼、私の希望するものを瞬時に判断して細引きに結び付けてくれる、余人には代えられない相棒なのです。以心伝心でないと15メートル以上もある高所では、バランスをとっているのが精いっぱい。もっとも安全ベルトで体の保定はしているのですが、恐怖心は青年時に比べると何倍も大きいのですから。
頂点から3メートルばかりしたの幹にワイヤーを結びつけて本日の作業は終了。明日は高所でのチェンソーの使用、思うだけで身がすくみました。

2009年8月20日 朝、今日は枯れ松を始末しようぜー、と息子に声をかけました。本当は恐ろしくて逃げ出したい自分に声をかけたのですが。
4-5日前から10トンのパワーショベルを背後の高台に据えて準備はできていました。そのショベルと枯れ枝をワイヤーで結び、上部から切り落としていくのが作業の段取りです。
一度に根切りをして引き倒すには巨大すぎて機械の力が足りません。ですから上から枝、幹、と四段階に分けて切り落とすことにしたのです。問題は樹上で切断の作業をすること。足場が不安定ですからこれが一番危険。もちろん安全ベルトは装着して命綱は確保してあるのですが、手鋸でも怖いのにチェンソーの操作とは、恐怖恐怖、また恐怖でしたね。
最初、大きな枝2本は手鋸で2/3ほど切り、後は息子が機械で引き落とす。そのたびに木の上から下りたり登ったり、不安定な足場を頼りに、意地と息子を頼りにうまく真下の車庫に損傷を与えずに作業が済んだときには、ほっとしました。懸案の難事業が事故もなく終了した。夕方には二人ともへとへとでした。

伐採をした老松の年輪を数えた亮ちゃんの報告では130年プラス10年ぐらいとのこと。私の子供の頃にはすでに70歳の大木だった、長い長い付き合いの松の木でした。
この松の木は3代にわたる見浦家の盛衰を見て何を感じたのでしょうね。その年輪を見つめていた和弥は約100年以前に年輪の間隔が非常に密な時期があったのを発見。天候が不良だったかもしれないと話しました。
何時か老松を代弁して物語を書いてみましょうか。

あと半年で79歳、今日は恐怖と戦って枯れ松を処理した報告でした。

2009.9.29 見浦哲弥

0 件のコメント:

コメントを投稿

人気の記事