2013年5月5日

山本夏子様

お葉書ありがとうございました。心和む挿絵つき、一足先の春到来の心地でした。
共済組合でお世話になったあのころから長い時間が経ちました。私も家内も80の坂をとうに越えて、過ぎ越しを振り返る時間が多くなりました。
まだ右も左もわからぬ若造のシャカリキの牧場経営、ずいぶん迷惑をおかけしたのではないかと反省しきりです。
特に貴方様には桧垣先生との確執でご心配を頂き、お詫びを申し上げないまま過ぎました。本当にすみませんでした。いつかはお話しようと思いながら機会を得ませんでした。今日はお葉書のお礼に便乗して、遅れた報告を書いてみようと思います。

あれは、去勢の肥育牛が3頭、続けて死亡した時のことです。症状は激しい下痢、桧垣先生が担当され治療されました。確か17-8ヶ月の大きな牛で、同じ症状でした。治療で議論したのを覚えています。この大きさでこの症状、原因の結論が出ないまま、活性炭入りの下痢止めを投与、即死亡ということになりました。確か2頭目だったと記憶していますが、「原因はわからないが埋葬してもいいよ」との連絡を受けました。そのとき私の技術者根性が憤激しました。実は私も技術者、もっとも電気工学ですが大田川にある中電の発電所の主任を勤められる第二種電気事業主任技術者、わからないからいいですよ、とは言ってはいけないと教えられた。わからないまでも自分の力の及ぶところまで追求する義務がある、そんな考えでしたから。
もちろん、人間ですから出来ないことはいっぱいありますがね、何かご不幸があったとか後で聞いた話ですが、そのときはその姿勢に憤慨したのです。思ったら即実行が見浦の悪いところ、埋めろというなら解体しても文句はないはず、と息子と二人で解体、下痢の症状だったのだからと肛門から直腸、小腸と調べていったのです。そして見つけました。飲ませた活性炭末が血液で固まって腸閉塞を起こしていました。それが数箇所あったと記憶しています。なぜ出血したのかと腸管の粘膜を調べると転々と穴が開いている。子牛のコクシジュームと同じ現象でした。そこで専門書を読み漁りました。いわく、5-6月齢までにコクシジュームに感染すると記載はありましたが、17-8月齢の牛が感染して死亡の例があるとはどの本にもありませんでした。あとで考えてみると見浦牧場にコクシが侵入した初期のころで、耐性を持っていない牛がいたのだとおもいます。抗生物質の多用で効き目が悪くなっていたので、サルファ剤の声も聞いた気がするのですが、コクシとはだれも気がつかなかった。桧垣先生を責める気はありませんでしたが、技術者ならわからないので開けてみるの一言がほしかった。当時、二人おられた獣医さんの中で彼の方の才能を買っていたものだから、警鐘を鳴らす意味で彼を拒絶したのです。そこを乗り越えると彼なりの成長が出来る、そんな生意気が私にあったのです。

実は、私が牧場を始めたころ、共済に山口からこられた同姓の桧垣先生がおられました。この先生にプロの厳しさを叩き込まれたのです。プロというのは仕事が出来る出来ない以前に、精神が大切なんだということを。
人工授精がうまくいかず、お願いをしたときのことです。牛飼いをはじめた動機を聞かれました。ゆくゆくは牧場で牛で食べてゆく、そんな返事をしたと記憶しています。
そこで先生が「直腸に手をいれたことがあるか」と聞かれたのです。忘れもしません。「私は獣医ではないので入れたことはありません」と答えたと記憶しています。とたんに先生が烈火のように怒られた。私はなんで叱られたのかわかりませんでした。「君は牛で食べてゆくといったではないか。それは牛のプロになるということではないのか。最初から出来ないと投げ出すようではプロにはなれない。さっきの言葉は口先だけか?」
思いもかけない叱責にしゅんとなった私に追い討ちがありました。「40日経つと妊娠鑑定ができる。そのとき君の本気度を測ってやる。勉強しとけ。」
負けず嫌いだけがとりえの私はそれから毎日牛の直腸検査をしました。そして微妙な変化を指先で読み取ろうとしたのです。約束の日が来ました。先生の前での直腸検査は緊張で指先に何時もの感覚がありませんでした。でも厳しい先生の顔を見ると逃げるわけには行きません。内心震えながら「右側の子宮角が腫れている感じです。これはプラスだと思います。」先生も手をいれられて、「本当にそう思うのだな」「はい」
何もおっしゃりませんでしたが、それからは農家の扱いではなく畜産の弟子として教えていただいたのです。
プロなら逃げてはいけない。先生は無言で教えてくださった。そして私も懸命になった。そんないきさつがあったのです。ですから若い桧垣先生の対応が我慢できなかった。いい素質を持ちながら逃げではないのか、ボイコットしてやる。
風の便りに貴方が心を痛めている話は聞こえてきました。でもこれだけは後に引けなかった。
その後桧垣先生は共済のデータのコンピュータ化に熱心になられた。息子が協力を頼まれ、何日か千代田に出向きました。先生の近況がわかるにつれ、本来の生き方に向きを変えられたと感じて嬉しかったのです。そして順調に出世されたと聞いて、山口の桧垣先生から教えられたプロ精神のバトンタッチはしたねと自己満足をしたものです。

あれから多くの獣医さんとお付き合いいただきました。そして無理をずいぶん聞いていただきました。特に原因がわからないとすぐ「開けてみましょう」と開腹して確認してくださる。息子や亮子君(お嫁さん)などメンバーが顔をそろえて学習する、私の描いていた農民風景をみせていただいて嬉しい限りなのです。

見浦牧場はいまだに悪戦苦闘ですが私の思い描いた農民像をみなで追い求めています。ありがたいことだと思っています。

お返事を差し上げようと、この文章を書き始めて10日あまりも経ってしまいました。82歳という年齢はすべての機能を仮借なく奪ってゆくさびしいものです。でもお葉書をいただいたおかげで懸案の報告ができました。本当にありがとうございました。

前後しましたが、お体の具合はいかがですか。私の日本脳炎の後遺症と付き合うこと60年、でもこの年まで生き延びました。どうか気をつけながら元気で長生きしてくださるよう、祈っています。
駄文をひとつ同封します。私の生き方のひとつです。お読みいただければ幸いです。

2013.3.11 見浦哲弥

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