2018年5月13日

佐田先生

中国新聞の記者だった島津さんから例年どおり年賀状がきた。その余白に佐田さんが亡くなったと記してあった。もう3、40年にもなるか、彼もまた、見浦牧場に影響を及ぼした人の一人なんだ。今日はその思い出を辿ってみよう。

佐田先生は私より少し先輩、広島県畜産課の技術職員、私にとって、中島先生、榎野先生に次ぐ大切な指導者だった。当時広島県は日本和牛の3大産地の評価を守るために懸命だった。貴方も聞いたことがあるかもしれない。広島の神石牛は日本の3大名牛の一つだったのだ。比較的小柄ながら飼いやすくて力がある、しかも肉質が良いと、専門家でその名を知らない人はいなかった。しかし、時代は役牛の時代から肉専門の肉牛の時代に移り変わりの時、広島県の畜産関係の専門家はいかに対応するかと試行錯誤の時だったのだ。

増体とロースの大きさとサシが先行する神戸牛に追いつけ追い越せと走り始めた各地方の和牛作り、改良の基本は優秀な種雄牛の作出にあると懸命だった。

当時、広島にも名牛はいた。第42深川号、柿乃木号、とか、各県にも知られていた種雄牛がいたが、肉用牛としては物足りない。県の畜産技術陣が総力を上げて新しい種牡の生産に全力を上げていた。一日増体量然り、枝肉重量然り、勿論、A5と呼ばれたサシ(脂の入り方)しかり、その努力の結果、神石で”31青滝号”、比婆で”乙社6号”、の種牡が生産されたんだ。

ところが見浦牧場が目指したのは放牧一貫経営、出来るだけ自然に従って、自然を利用しながら和牛を生産し、経済的に成り立つ経営を目指したのだから、地域と経営方式にマッチした牛群を作らなければならない。ところが見浦方式で耐えうる牛だけを選抜して残していったら、牛が小さくなったと指摘されたんだ、飼い方が間違ってはいないかと。

当時は自分たちの技術を補うために折があれば見学に出かけていた。大きな牧場から小さな農家まで、牛がいれば覗いてみる、人がいれば話してみる、どこかに私達の求めている考え方が眠っているのではないかと。

ある時、八幡(北広島町)の向こうの山頂に弥畝山放牧場があると聞いて訪ねてみた。島根県の県営放牧場、弥畝山の山頂を中心に、中国山地の山脈に沿う形で峰が走り、北に日本海が見え、南に県境の八幡の峰々を眺める、なだらかな山頂を中心に草原が広がって面積400ヘクタール、素晴らしい景観だった。

しかし、それより驚いたのは放牧されていた島根の和牛だった。荒削りの感じはするものの胴伸びの良い大型の牛、斜面の草地を疾走する姿には自然を感じたんだ。これはと注目すると骨格が頑丈なんだ。広島の牛に比べると荒削りではあるが胴伸びが良くて足が太い、見浦の牛に不足していたのは、これだと思ったね。

そこで県外の種雄牛を探したんだ。そして鳥取の気高牛にたどり着いたんだ。そして入手可能な精液、気高号の子供の長尾号を交配したんだ。広島県の方針に反してね。当時は他県の種雄牛の利用はタブーとの暗黙の規則があって、担当の佐田先生が驚いた。県は青滝号と乙社号の優秀な種雄牛を奨励しているのに、浮気をするのは何事かとね。見浦牧場の生産する肉牛の肉に問題が出て広島の種雄牛を見限ったかと屠場まで肉質を確かめに来た。そして問題はないと安心して帰られたのだが、私は県外の種雄牛の利用を止めなかった。そのため佐田先生との関係は急激に悪化したんだ。

再会したのは、それから何十年後、小板にある古民家喫茶で会合があって退職して自由人になった佐田さんが出席していた。たまたま近くでトラクター作業をしていて顔をあわせた。「話にきなさいや」と誘ったのだが「また今度」との返事、それが最後になった。熱心で優秀な技術者だった彼だが、未熟とはいえ経営者の私と長期の展望で差が出来たのを気にしていたのだと思う。あれからの長い時間、鳥取の気高号の遺伝子を導入して牛の改良をするのは、兵庫の神戸牛を除いて全国の常識になったのだから。
県の職員だった島津さんからの年賀状に佐田先生の訃報が記されていたのは、佐田先生が島津さんとの間で見浦牧場が話題になっていた証拠、腹を割って昔話をしたかったな。

同じ、榎野先生の門下生?として昔を偲ぶ時間が欲しかったが、今はただ佐田さんの冥福を祈るのみである。

2017.7.15 見浦哲弥

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