2012年2月22日

TPPについて

”衣食足りて礼節を知る”ということわざがあります。日本人ならよく知っている言葉です。世界の人口が70億人を超えた現在、この人たちに十分に食料を提供することが可能なのか不可能なのか、を考えることがこの問題の基本です。

私が子供のころは、世界人口は21億とか25億とかいわれていました。あれから農地の新開発や品種改良、農薬の普及などで食料の生産は飛躍的に増加しました。
しかし生産の増加を上回る速度で人口が増え、食事の内容工場で農産物の需要も増加したのです。アメリカをはじめとした穀物輸出の主要国では余剰農産物が問題になったのはそう昔のことではありません。ところが最近は世界のどこでも余剰農作物の話はありません。その中で米が余ると大騒ぎをしているのは日本だけ、しかも食料の自給率は40%をきるというのに、対策が後手に回って、足らなければ輸入すれば、との議論が主役なのは、農民の一人として空恐ろしい気がします。

私は敗戦直後の混乱を目の当たりにした老人の一人です。平時でも5000万人しか扶養できない日本列島に8000万の人間が押し込められたのですから、食料危機が起き、弱者が飢餓に追い込まれて死者が出たのは当然のことです。今でも広島駅の地下道に転がっていた餓死者の姿は脳裏から離れないのです。

政治は国民の衣食住を確保し、生活の安全を保障するのが仕事なのです。最悪の事態のとき、国内で自給できる食糧はどのくらいかを想定し、その対策を立てた上で貿易問題を取り上げるのが筋ではないでしょうか。今国内では農村が崩壊を始めています。社会が国家が適切な対応を怠ったがために農村から優秀な人材は流出してしまいました。
政治家も評論家も農村再建のためには資金を投入して新しい体制を作らなければと声高ですが、現在の農村にはその受け皿の人材がないのです。農業教育で若者を育てるといいながら、教えるほうはサラリーマン、教科書の内容は伝わっても農業は伝わらない。作物にしろ、家畜にしろ、農民が相手にするのは命のある生き物なのです。教科書から抜け出さない限り、成果を手にすることはない。私が見てきた小板の農業は作物や家畜をモノと見始めて崩壊していきました。牛の気持ちがわかる、稲と話ができる、そんな言葉が消えていって田畑が荒廃し農家が崩れていった、そう認識しています。

貴方はデンマークとドイツが戦ってデンマークが肥沃な国土を失って、再建のため当時不毛といわれたユトランド半島を開発して肥沃な農地とし、国家の再建をした話を知っていますか?その主役は農民学校で育てられた農民だったことを、今の日本のように、農業技術を教えてそれで農民の出来上がり、とは違う、農民が主役だったことを。

「自然は教師、動物は友、私は学ぶことで人間である」は見浦牧場のモットーですが、現在の技術万能の農業教育では本当の農業者は育たない、そう思うのです。
もちろん戦前の精神論を主張する気はありませんが、市場経済だから金儲けだけが目標というのでは、農業のような時間の積み上げが必須の産業は育たない、自然から学び、生き物の命から真理を読み取る、そんな農民が主役にならないと、日本の農村は再生しないと思うのです。

その視点から現在の農村を見ると、何のために働くか、何のために生きるか、目標を失っているように見えます。もちろん、子育て中のお父さん、お母さんは懸命に子供を育てていますが、その他の人は金、金と市場経済の亡者です。自分たちが誰に護られているかは頭にはない。
何十年か前に小板にもあった、集団で生きる、という考え方は消え去ってしまったのです。
もちろん、昔のボスどもに苦い思いをさせられたことは忘れてはいませんが、一人では生きられない、集落、自治体、国家なくしては生き延びることはできない、の意識は感じることができません。

外国では集落、部族、宗教、国家などと集団意識が強いのに、日本人はどうしたのかと思うのです。長い間の平和ボケ、権利に偏った平和教育、数え上げればきりがないでしょうが、目の前だけに右往左往している、そのひとつがTPPだと思っています。

農業は国民に食料を供給するのが仕事、国民に餓死者を出さないための政治、それに答える農民、そのためには憲法を変えてでも新しい道を模索する、TPPをそんな契機にしてほしいと思うのですが、現状では不可能でしょう。何十年かして見浦という農夫が戯言を延べていたと伝わったら、それでよしとしなければと思っています。


2011.11.4 見浦 哲弥

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