2008年10月4日

信頼

 Jさんという大工さんがいました。昔かたぎで腕のいい大工さんでした。私より20歳ばかり年長の先輩。今日はその人との話です。

 20歳前半、稲作りに成功しました。当時、小板の最高反収は1.7石(250キロ位)、見浦家は1.2石(180キロ位)もう少し少なかったかな。それが2年余りの稲作りで2.5石(350キロ)を超す多収穫に成功しました。この話は、そのときから始まったのです。

 新しい稲作りに挑戦した私たちに、集落の人たちは悪口雑言でした。小板で一番稲作りがへたくそが多収穫を目指して新しい挑戦を始めたのですから当然でした。
 当時は何から何まで伝統やしきたりが大事。代掻きひとつでも昔からの方式があって、最初は右回りに輪を描いて回り、次に縦に並べて右回り左回り、最後が再び右回りを繰り返しながら、最初の地点に戻る。順序が厳然と決まっていましてね。代掻きは田圃の土をドロドロにして植えやすくするのが目的のはずなのに、古老から教えられたことを正確にやる、それが米作り。私はそれを、違うんじゃないか、要は目指すべきは多収穫で方式はどうでもいいというのですから大変。田圃の回りにはいつも人がいましてね。へたくそがやせ牛で仕事をしている、と笑っていたのです。が、新しいことをはじめるととたんに人が増えましてね。特に田植え枠のときはひどかった。

 田植えのときは田植え枠という道具を使うのです。田圃に筋をつけて苗を植える目印にする六角枠Tいうのがありまして、3センチぐらいの杉の角材を組み合わせて六角の円筒を作り、田圃に転がして目印をつけていく。ぬらしたり乾かしたりの連続ですから、良質の材料でいい大工さんが時間をかけないと出来ない。皆さん、それはそれは大事にしていました。
 ところが見浦家には一世代前の田植え枠、3本の細い角材を組み合わせた平面枠で植えるところにはしるしが付いていて、印のところに苗を植えたら向こう側を持って手前に返す。その連続で田植えをする方式でした。この枠は材料はそこそこで、大工さんも普通の大工さんで作れる、ただし能率はかなり悪かったですね。

 当時の私たちには、新しく六角枠を作るお金も才覚もありませんでした。悔しくてね。本を読み漁りました。ある本の挿絵にT字型の枠の横棒に苗を植える目印の木片を打ちつけ、縦棒を引っ張って田圃にしるしをつける道具が載っているのを見つけました。これなら私にも作れるさ。早速自作して、改良して何とか使えるようにしたときにはうれしかった。何しろ参考になるのは小さな挿絵だけでしたから。

 この枠の欠点は、人間が引っ張って歩くのですから、上筋が右に左に曲がるのです。六角枠は上手に転がすと見事な直線になるのですが、私が作った枠、”ばば”(後に馬場と呼びました)は、その欠点がありました。で、この方式で田植えを始めると、大勢の人が集まりましてね。
 隣の婆様などは田圃のふちで「こがーなことで、米ができりゃー百姓はいらんよー」と、大声の悪口でした。野次馬が皆うなづいていましたっけ。

 ところが、私が父から独立して、小板で最低の米作りからの脱却を目指して猛勉強していたことは、皆さんはご存知ない。朝倉書店、養賢堂などの専門書を買い込んで読みふけりました。入門書なら何とか理解できたものの、専門書は小学校の知識ではさっぱり分からない。分からないで済ませられる性格なら苦労はないのですが、夜が眠れない。
 考えた末、農業試験場に勉強に行くことにしました。ところが近くには稲の試験場がない。仕方がないので西条の農業試験場に一晩泊で通ったのだから、若かったのですね。
 もちろん、豊かではない財布ですから、一度により多くの事柄を学ばなければなりません。理解できない点を列挙して教えを請いましてね。帰宅して稲や田圃を調べ、もう一度本を読み直す。その繰り返しでした。

 何度目かの訪問で、いつもは研究員の方が相手をしてくださるのに、その日は場長先生が出てこられました。「今日から私が見浦君の相手をするから」と、いまから考えると先生は私の熱心を高く買ってくださったのですね。勉強がはかどったのは言うまでもありません。

 そんなこととは知らない集落の人たちは、見浦の若造が生意気に、新しい稲作りを始めたげな、年寄りに教えてくださいと頭を下げないで、うまいこといくわけがない。やりそこなったらわろうてやろうで、と。前年までが悲惨な稲作りでしたから無理はありませんが、そんなこんなで、大勢の野次馬が集まったのです。

 さて、そんな皆さんの期待に反して、その年の稲作りは大成功でした。先生に教えられたことと、私が気づいた寒冷地の稲作りの盲点対策が成果をもたらしました。

 翌春、二人の方が訪ねてこられました。いずれも40過ぎの働き盛り、飯米百姓と呼ばれた0.5-0.6ヘクタールの小農の人でした。
 そのうちの一人が
「見浦さん、稲作りをおしえてくれーや」
「どがーな稲作りが知りたいんよ」
「肥料が少なくて米が仰山とれる米作りよ」
「おじさん、それは飯を食わせないで仕事をしろというのと同じやで」
それを聞いておこったのなんの、考えてみたら、そこの子供たちは青白い顔でやせていましたっけ。
 もう一人が前述のJさんでした。
「見浦さん、恥をさらすようだけど、米作りが下手で飯米がたらんのよ。なんとかもう少し仰山取れるように教えてもらえんかの」
20歳も年少の私に頭を下げられたのです。食べ盛りの男の子が二人、それが昔の見浦くらいの米作りでしたから、苦しさはよく分かるのですが、それよりもJさんの真剣さに心を打たれました。
「わかりました。私の稲作りを教えましょう。ただし、条件があります。この一年は私が申し上げたとおりの稲作りをしてもらいます。ひとつでも間違ったら、結果の責任は負いません。しかし、私の言葉どおりに作られたら、1石7斗(225キロ)を保障しましょう。もし、出来なかったら差額は私が米を差し上げます。」

 そして稲作りが始まりました。2ー3日おきにJさん宅を訪ねて稲の育成状況を見ました。入り口に黒板を備えてもらい、不在のときは要点を記して、すぐに対策をしてもらいました。施肥、防除、水の管理、エトセトラ・・・・・・・。
Jさんも奥さんも懸命に、青二才の私の言葉に従ってくれました。

 秋がきました。丹精した稲は彼の田圃では見たことのない見事な実りでした。

 自分の仕事が忙しい私は、結果が見えてきた時点で「もう大丈夫ですね」と申し上げて、訪問は中止しました。

 稲刈りが済み、脱穀が終わった12月。
Jさんが大きな紙包みをもって訪ねてきました。
「見浦さん、お世話になりました。」と。
「1石7斗より多かったですか?」の問いかけに、
「だいぶ多かった」と答えられました。
正直なところ、少なかったら補償の約束は、まだ経済的に弱い私には大きな負担でした。
お礼にといただいた紙箱にはワイシャツが1枚、安物でしたが、Jさんの精一杯の感謝がこめられていました。

 でも、この話はこれだけでは終わらなかったのです。

 あれは何年でしたか、国道191号線の付け替え工事が始まったときです。新道がJさんの家の近くを通ることになりました。
かねがね、自分で建てた家で生涯を送ると決めていた彼は、道路が所有地を通過することを頑として承知しませんでした。情勢次第で路線が変更されて立ち退きを迫られては、と思い込んだのです。
 建設事務所が来ました。役場が来ました。自治会長も行きました。立ち退きはない。道路は30メートル以上離すと約束しても、「あんたらでは信頼できない、見浦を呼んでくれ。彼が間違いないと保証したら同意するが、それ以外では話にならない。」と。
 困り果てて役場が私の元にやってきました。「なんとかしてもらえないか」
 集落の道路委員だったとはいえ、地権者の意向を役場に伝えて調整するまでが仕事、決定を保証するなど、権限もないことを頼まれたのは初めて。役場の再三の懇願に、とうとう、「約束する。もし変更するよなことが起きたら、自分のこととして戦う」
「見浦さん、本当じゃのー」
「本当じゃ」
それを聞いて彼は役場の人に
「見浦さんが約束してくれたけぇ、判をつくけぇ」
Jさんは分家さん、おとなしい人で、集会でも意見を言うことはなかった、物言わぬ私の指示者でした。他にも何人かいた同様の人たちが、集落での私の力だったのです。

 何年かしてJさんが亡くなりました。息子さんと同居していた奥さんが認知症にかかりました。病状は進行して、徘徊が起きるようになりました。そして、ご主人と二人で建て、ともに働いた田圃の周りをうろつくようになりました。昔の住居は跡形もなくなっているのに。
 息子さんの顔を見て、「貴方はどなたかいのー」と見分けが付かなくなりました。それなのに、たまにであって「おばさん、わしが分る?」と聞くと、じっと目をすえて「わかるよ、哲弥さんじゃー」と答えてくれました。

 息子さんの記憶は消えても、私の記憶は残っていた。あの稲作りの一年がお二人に与えたインパクトの大きさを教えられて、人生において誠実に相手の立場を考えて生きることの正しさが証明されたと思っているのです。

 人の心に住む、それは私の生き方。それがたまたま実現したJさんの物語。貴方はどう感じましたか?

2008.6.28 見浦 哲弥

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