2012年7月18日

一貫経営のこだわり

今日2008.04.16 恒例の予防注射(気腫阻)がありました。家畜保健所から3人、家畜診療所から2人、いつもながら90頭あまりの注射はそれなりの大仕事です。
仕事が終わって雑談のときに気になることがありました。今日はその話、見浦牧場の和牛の放牧一貫経営の成り立ち、考え方について話してみようと思います。

私たちの経営は子牛の生産から肉牛の販売まで、端的に表現すれば、精液を買って、屠場に仕上がった肉牛を売る、(本当は消費者に直接生肉を販売したいのですが)それが現状のシステムです。
この基本は昭和40年から2年間、神石郡油木町にあった広島県立雪種畜場の多頭化放牧一貫経営試験がお手本です。
この試験は当時畜産界で大論争になった、和牛の将来についての、京都大学上坂教室と広島県農政部の中島部長以下広島県畜産技術陣との対立、それに関連して広島県が行った実証試験がそれです。

当時、広島県の多くの若者が、この多頭化試験の成果に夢をかけたのですが、45年の歳月は見浦牧場を残してその多くを戦線から離脱させました。

ですから、家畜保健所の職員の方が、この牧場の基本の考え方を興味深げに聞かれたので、45年前に何が広島県の和牛の世界に起きていたのか、それを解決しようと懸命に努力した広島県畜産技術陣があったこと、それに夢をかけた若者が数多く存在したこと、そんな事実を書き記す責任が見浦牧場にはある、そんな気がしたのです。

ここ芸北地区は和牛と呼ばれる黒牛については、広島県の後進地で、山県郡の牛は広島県で最低のランクに分類されていました。特に芸北地区の牛は島根和牛の血統の影響を受けて、ブランドが確立していた神石牛が基本の広島牛からは相手にされない雑駁(ざっぱく:雑然として統一がないこと)な牛の集まりでした。
でもその芸北地区から和牛飼育に農業の夢をかけた若者が数多く出たのは、昔から広大な山地を利用した夏山放牧の歴史があったからなのです。
小型耕運機が普及する以前の和牛は、春先の農繁期の活躍がすむと、各集落に付属していた大小の放牧場に放すのが慣わしでした。真夏のお盆前後は駄屋(牛舎)に収容して、刈り草を踏ませて堆肥つくりに励み、涼しくなるとまた放牧場に戻して稲刈り、秋じまいが済んで初雪が訪れるころ再び駄屋に連れ帰る、そんなパターンで牛を飼っていた経験から、新しい放牧形式の和牛経営は簡単に成功すると思い込んだ。しかしそこから長い試行錯誤と失敗の歴史が始まったのです。

今にして考えると失敗の原因は、役牛と肉牛との違いを完全に認識していなかった事だと思うのです。もちろん、技術者は問題点は捕らえていました。一日増体重を0.6キロから欧米の肉専用腫の1.2キロに近づける必要性を声を大にして叫んでいましたから。(現在は0.9から1.0キロぐらい)

当然のことながら、役牛は農耕作業のために存在し、子取りはおまけ、もちろん先進農家は繁殖と育成に努力と技術の積み上げをしていましたが、大部分の農家は博労(ばくろう:牛馬の売買・仲介を業とする人)のいうまま、技術も売買も彼らの思うがままでした。従って和牛飼育の利益も彼らの懐に直行、それでも農繁期に活躍して堆肥が取れて米が取れれば満足、それが大多数の農家でした。
それでも、「わしらー牛を飼うとった。牛は素人じゃない」と自負していましたから、役牛が肉牛に変わるという意味を理解していた農家はいなかった。そう思われても仕方がありませんでした。

役牛から肉牛に変化した和牛は、一年一産が目標、牛が鳴いた(発情)けー、種付(授精)をしたでは通らない世界、微妙な行動の変化からもその前兆を読み取り、適期授精をしなくては成績はあがりません。
私が「あの牛は明日発情するよ」というと、そんなことがどうしてお前にわかるのかとまず疑う、的中すると「ありゃーまぐれよ」と片付ける、そんな農民まで和牛で儲けると乗り出してきましてね。そんな受け手の事情は指導する側にまったく理解されていませんでした。要は官の指導に従えば儲かると。

肥育専門の農家は福山を中心として、温暖な瀬戸内海沿岸に集中していました。冬季の低温に晒される中国山地ではそれなりの新しい技術の開発と対策が必要でしたが、農家はえらい先生の言葉と教科書を丸呑みして、自分たちの創意工夫を積み上げる努力をしなかったのです。
そのころ、豊平町(現在の北広島町)で和牛界の神様、京都大学の上坂先生の講演がありました(現在でも神がかり的人物)、但馬牛の牛の飼い方が基本の飼育法と市場の評価の話で、これからの和牛はこの方法で金儲けを目指す、そんな話でした。会場を埋め尽くした農家はおいしい話に熱心に聞き入りました。熱気がありましたね。
その但馬牛を作り上げるために、兵庫の農家たちが長い年月、営々と努力を積み上げ、創意工夫で築き上げた歴史にはまったく関心を払わないで、高値で売れて金儲けができる、そこだけが頭に入った、そんな感じの講演会でした。
先生もサシの入った高級肉を作りさえすれば経営は安定すると話された。消費者の立場からすれば、安全なうまい牛肉をより買いやすい値段で生産し供給してほしい、そんな視点はありませんでしたね。

以来、日本の和牛はサシA5の霜降り高級肉を狙うのが主流で、残念ながら一般的な都市生活の皆さんにリーズナブルな価格で世界最高の食味の牛肉を供給する、そんなことを言う農民は和牛の世界から排除されてしまいました。

しかし、消費者の立場を見据えた見浦牧場の考え方は、一部のマスコミから高い評価を受けて何度か取材を受け記事になりました。時代を動かす力はなかったにせよ、犬山市の斉藤さんのように、この記事がきっかけで脱サラし消費者本位の肉屋を開業されて成功された人も出ました。ささやかな力になったかもしれませんが大勢に影響はありませんでした。

貴方もよくご存知のように、日本の農家は南北に3000キロメートル、高低差1000メートル以上の多様な農業環境におかれています。その中で農業を営んでいるのです。
その条件の中で、より安く、よりおいしく、より健康的な和牛肉を生産供給するためには、その地域、その牧場に適した牛を選抜し育て上げなければなりません。偏見かもしれませんが、工業的な飼い方で生産されるブロイラーと違って、牛は高い知能を持つ哺乳動物なのです。ですから物言わぬ彼らの気持ちを理解することが、最終の利益につながっていることを忘れてはいけないのです。

和牛には登録という仕組みがあります。明治の終わりに和牛の大型化を狙って外国の種雄牛を導入し、交配したのです。当時はまだ藩閥政府の名残が残っていた時代、各県がそれぞれの思いで種雄牛を導入したのだからたまりません。日本中に被毛が黒いだけが共通の多種多様な和牛が出来上がったのです。
大型化はしたものの、耐久力がない、野草が利用できない、環境への適応性が低い・・・様々な欠点が認められるようになったのです。

大正に入って、これではいけない、品種として統一性がないと和牛という品種がなくなる、と危機感を持った人たちが京都に和牛登録協会を設立、牛の戸籍簿、すなわち登録をしないと和牛とは認めないという制度の運用を始めました。
研究者が集まって、将来の和牛の理想像を設定、より近いものに高得点を与えて記録する和牛登録制度を作り上げました。
何代も高得点を得た牛の子供は高等登録、一般の牛は普通登録、遺伝的にレベルの低い牛は補助登録とランクがありましてね。(もっとも私はこの方面の知識は多くありませんから、正確を必要とされるときには登録協会に確認してください)登録牛の子供以外は登録できなくして、斉一性を目指したのです。
ちなみに貧乏な見浦牧場の牛は普通登録の最低レベルの牛ばかりでしたね。

子牛が生まれると最初に子牛登記をします。この登記には父親の確認のために精液証明書と授精作業をした獣医師や授精師の種付け証明書が要ります。そこで初めて子牛は和牛の仲間入りをするのです。この登記がないと子牛を売買することができない。
子牛が成長して16ヶ月になると24月齢までに登録検査を受けなければ和牛として登録してもらえない。現在では両親が登録牛でないと子供は和牛として認められないのだから、農家にとって大切な業務なのです。

さて、登録検査です。複数以上の検査官が体重、身長、胸囲、管幅(腰骨の幅)等々を計測、被毛、背線、舌、等々を目視で観察(外貌検査といいます)、理想像からどのくらい減点するかで点数を決めるのです。ところがその点数は決して私たちが求めている性能を現していない。
問題は農家の側にもありました。この登録検査ですが、子牛市場で子牛に値段がつくときに、母牛の登録点数が高いと競値も高い、その差が無視できないほど大きくて、検査のときに磨き上げるのは序の口で、子牛のうちから栄養過多にして太らす(人情として見栄えのいい牛は高めの得点になります)ところが子牛から太った子牛は肥育牛として本格的にえさをやると、途中から成長を止めて丸くなる、病気に弱い、等々マイナス点ばかりなのに、子牛生産農家と肥育牛農家との利害が一致しないため改善できない。
そこで同一経営内で子牛生産と肥育飼養を行って問題を解決しようとするのが一貫経営なのです。

ところが子牛生産は牛本来の生理を大切に健康に留意して育てる、肥育経営はその生理を最大限に利用して飼料をいかに効率的に牛肉に変えるかを追求する。それは相反する技術の集積なのです。ひとつの経営体の中で、二つの相反する技術を保有しなくてはいけない。見浦牧場では分業の形でそれぞれが分担をしているのですが、バランスをとるのが難しい。家族の中でも論争がありましてね。

新しい方式には解決しなければならない問題がこの他にも数多くありました。走り出した一貫経営もいつしか分業の世界になり子取り農家と肥育専業に分化しました。そして何千頭の巨大な肥育牧場と零細な子取り農家という形が出来上がったのです。
わが友人の中山牧場は2000頭あまりの大牧場と直接販売のお店を持つという形で大成功しましたが、見浦牧場はいまだに一貫経営という夢を追い続けています。牛肉生産という技術は消費者の牛肉に寄せる評価を子牛生産に反映させる、その繰り返しで発展してゆくと信じているからです。
幸い50年の時間が経過した現在、日本の各地で僅かながら一貫経営の声が聞こえるようになったのは嬉しい限りです。

しかし、この長い年月の間に私の不注意で数多くの牛たちの命が無駄に失われました。無知ということが生き物にどんなにむごい犠牲を要求することになるのかを畜産農家としては常に心に刻んでいかなければならないのです。
目を閉じれば、未熟ゆえに倒れた牛たちの顔が頭に浮かびます。人間が生きるために犠牲になるのが家畜の定めとは言え、最後の瞬間までは同じ生き物としての思いやりが農家には必要なのです。その姿勢で彼らと接することが新しい発見と知識をもたらし、経営の利益に結びつくのだと、私は信じています。

この文書を書き起こしてから、もう4年もコンピュータの中で眠っていました。ようやく文章に仕上げることができました。文節がつながらないところは老化ゆえとお許しください。

2012.3.6 見浦 哲弥

0 件のコメント:

コメントを投稿

人気の記事