2009年5月5日

誰も知らない可部線ないしょ話

この話は可部線建設が加計駅で止まって延線工事が5年も6年も中断した時の話です。
覚えている人は、ああそんなこともあったね、とおっしゃるはずですが、それが後年可部線が廃線になる大きな原因になろうとは、当時は誰も思いもしませんでした。
当事者は口を閉ざし、数少ない真実を知る人はこの世を去りました。でもエゴは身を滅ぼすという見本のような事実を今日は話してみましょうか。

戸河内の町長選挙で6票差で当落が分かれたことがあったのです。
当選したのは革新派とみられた丸山鶴逸さん、私より20歳の先輩。彼の初めての町議選の時、小板の若者たちの集まりに、当時問題になっていた横郷林道建設不正の話をしてもらいに来ていただいたときからですから、長いおつきあいでした。
そんな関係で、及ばずながら、その町長選挙の応援に参加したのです。

当落が判明した翌日は大変な騒ぎで、誰もが俺の一票が当選を決めたと自慢する、前代未聞の選挙でした。6票差ですから、3人が投票を変えていたら結果は逆になります。そんな僅差の勝利でした。

ところが選挙後1週間もしないうちに、鶴逸さんから会いたいと連絡がありました。当選後のあいさつ回りで忙しいはずの彼が黒子の私に用事とは何事かと思いましたね。
役場の近くにあった”けやき”という小さな喫茶軽食のお店が指定の場所でした。
あとから来られた丸山さんは、角のボックス席を指定して、周りを確認して話はじめられました。
その内容は1町民の私には衝撃的な町議会の話でした。

「見浦くんや、わしゃ可部線を戸河内まで開通させるのが公約じゃけぇ、選挙の後、すぐ岡山の国鉄の管理局へいったんよ。そこで早期着工を陳情したら、局長さんが”来んさるところが違がやーせんかの”と笑うんよ。わしゃー、何をいわれとるんかわからんでの、何度もきいたらの、」と話始められたのです。

実は国鉄は可部線の延長は規定の事実として実施しようとしたのです。ところが敷設の路線で苦情が出て中止になっていると、そしてその苦情はお宅の議会からですよと、しかも議長さんはじめ議員さんの連名で、われわれの要求が通らなければ鉄道は敷設させないと、陳情されているのです。と

驚いた丸山さんが詳しく訊ねると、加計から殿賀を通って上殿、戸河内への路線と、上殿から少し曲がって筒賀の中心を通って戸河内への路線と2案があったのだといいます。
山間の小さな村落でも鉄道が通れば通勤通学の便利が良くなる、おまけに土曜日、日曜日の観光にも力になる、そんな思いで筒賀村が鉄道誘致をと願ったのは当然過ぎるほど当然の話です。
筒賀を通っても時間的にも2~3分多くかかるだけ、それで村の中心に駅舎ができる、しかも上殿にも駅は作るという計画ですから、ぜひそうしてあげてと協力するのが隣村としての友情だろうと思うのですが、実際は筒賀に線路が回るのなら建設は反対、と戸河内議会が決議したというのですから、非常識この上もありません。
ようやく事情を理解した丸山町長は、平身低頭議会の理不尽をわびて、その足で筒賀村役場に出向いたとか。
当時筒賀村は吉原村長、後年、安佐農協の監事として同席する機会に恵まれて、その折の話を聞かせていただきましたが、汗顔とはまさにこのことでして、恥ずかしくて。
私も戸河内町民の一人として申し訳ないと頭を下げるだけでした。
吉原先生曰く、丸山さんは筒賀村の役場に来られて、手をついて謝られた。それで水に流したのよと。
そして、「筒賀村にも駅を作るよう、全力を挙げるので、可部線延長に協力してもらえないか」と丸山町長に頼まれたと、筒賀村にも駅舎ができるとなれば、村民も鉄道の恩恵にあずかることができる。過去は水に流して、鉄道の早期着工に協力して努力しようと、約束したんだと話されたのです。

しかし、丸山町長の話はこの後がありまして、路線が確定して筒賀村経由が決まった時、「議長がのー”戸河内のメンツがつぶれた”と町長室にきて男泣きをしたのよ、見浦君はどう思う?」とあきれ顔で話された。あまりの非常識と、このような人物に集落のボスというだけで地方政治を任せる、選挙民への憤りを私にぶつけられた、そんな思いで聞いたものです。

国鉄は政治線と呼ばれる鉄道の新設と、国労・勤労などとよばれた労働組合の経済原則を無視した権利の主張、待遇の改善で、民鉄と呼ばれた私鉄グループが黒字経営なのに、最大規模の国鉄は赤字続き、税金の垂れ流しという批判が起き始めていました。
政治家も官僚もどうにかしないと、国鉄は破滅、ひいては国家財産の破たんにつながりかねないと、その対策に奔走していました。その最初が国鉄の分割民営化でした。その次に来たものが採算の取れない政治線建設の中止でした。
そして三段峡駅から板が谷の真下まで掘り進められていたトンネルも、松原から150m掘られた斜坑も建設中止で無駄になりました。
ここに糞詰まり線と酷評される経済価値の低い鉄道が完成したのです。

さらに進められたのが、採算の取れない赤字路線の廃止、特に将来性のない盲腸線と呼ばれる路線は真っ先に対象となりました。
さらに沿線住民の減少と経済優先の社会は、可部線廃止を時間の問題にしてしまいました。

建設から約30年、廃止が具体的になり、赤字縮小のため利用者の増大が存続の条件になりました。それから泥縄の存続運動、鉄道の必要を説く声は大きくても、反省の声は聞こえませんでした。あの時の議員さんで生き残っていた人は何人も居たのに。

鉄道問題と同時に町村合併の問題が起こりました。
可部線建設の裏事情に通じていた野上さんが町長選に立候補しました。相手候補は鉄道の筒賀村の通過に反対した議員。もちろん、野上さんを支持しました。

立候補で挨拶に来られた彼に、「ここの票は4票だけど、全部あなたに入れるけぇ、周りの町村と仲良くして」というと、「仲良くすりゃ、ええんじゃの」と裏の裏まで知り抜いている彼らしい返事でした。
当選した野上さんが指揮する合併前提の町運営は、見ていて胸が痛くなるような他町村に対する気遣いでした。彼の努力で戸河内町民は農協合併の時のような、蚊帳の外に出されて、どこかに入れてくれとお願いしなければならないという悲しい思いはしなくてすみました。
町長在任中、最愛の奥様を亡くした彼は、町村合併が成立して間もなく、精根尽きはてたように亡くなりました。
現在は旧戸河内役場が新安芸太田町の役場、合併前に危惧した問題はどこにも見えません。老体にむちうって全力投球された野上さんは戸河内町の数少ないすぐれた人材でした。

さて、存続運動に夢中の地元民に国鉄が出した条件は、赤字額の削減でした。そのために要求されたのは最低乗車人員の確保でした。沿線の地元民は設定された利用客の増大に懸命になりましたが、沿線住民の減少と、自家用車の普及という現実には逆らうべくもなく、目標に届かずに廃止が決定しました。
最後の年、廃線を惜しむ名残客で三段峡への観光客は膨れ上がり、ホテル、旅館、土産物屋、etcは大いににぎわいました。ローソクの最後の火が燃え上がるように。
満席だったお別れ列車が走った翌日、三段峡線はひっそりと死んでいきました。

鉄道の路線も駅舎もそれぞれの自治体に贈与されて処理を待っていました。ところが目先だけの町会議員が数人、復活を叫んで運動を始めました。経済的な問題で廃止されたのに、その解決策なしに署名運動で圧力をかけて復活しようと、駄々っ子の悪あがきのような運動を始めたのです。おまけに不成功の時には返金すると約束して募金まで集め始めたのです。

町会の選挙の折、立候補の知人が訪ねてきました。鉄道問題を取り上げるなら、建設の時からのいきさつを調べないといけないよ。表面だけの現象で判断すると大きな間違いをするよ。その気持ちがあれば、私の知っていることは話してあげる、とアドバイスをしたのですが、又の機会に聞くよ、と上っ面の運動に関与して暴走、先輩として残念の一字でした。

現在は鉄路は撤去され、駅舎は改築されてバスの停留所、役場の前の路線は大きな駐車場として利用されています。しかし、延々と続く路盤と橋梁は、ありし日の可部線を思い起こさせます。はからずも立ち会うことになった鉄道建設の裏話、思い返す度に悲痛な面持ちで語った丸山鶴逸さんの温顔を思い浮かべるのです。

今日は、あなたの知らない過去からの報告を聞いていただきました。

2009.2.23 見浦 哲弥

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