2012年2月26日

私の恩師 榎野俊文先生

先生に初めてお会いしたのは、県庁の中島部長の会議室、当時先生は神石の油木種畜場の場長先生。
2度目はその数ヶ月後の油木種畜場で開かれた、多頭化一貫試験の講習会で。

当日、会場の種畜場についた私は、講習会が始まる前に事務所にご挨拶に伺ったのです。ちょうど先生が講師の技術員に指導についての注意事項の説明をされているところでした。
話が済むまではと遠慮して事務所の外で待っていたのですが、聞くともなしに聞こえてきたのは、「今日は受講者の中に大物がいます。手抜きをしないで丁寧に説明をするように」という言葉でした。うれしかったな。共同経営に失敗して、再び和牛飼育に挑戦を決めたのですから、少しでも自分の知識を補う、そのためならどんな努力でもする覚悟でしたから、ぜひともその大物氏を見つけ出して教えを受けたいと思ったのでした。

教室での講義あり、飼育の現場や、飼料畑の見学、牛の放牧状況の説明など、盛りだくさんの内容でした。ところが2日間の授業の間、注意深く観察したのに、問題の大物氏を発見できなかった。学んだ新技術は多かったのに、物足りない気持ちで帰途に着いたのを覚えています。
その大物氏が、実は自分のことだったと知ったのはそれからずいぶんたってからのことでした。

それからも問題が起きると試験場を訪問しました。しかし、備後の油木町は岡山との県境に近い、広い広島県をほとんど完全に横断するわけですから、辛いドライブでした。何しろ高速道路など存在しない時代、でも新しい技術に対する欲望は、まだ若かった私を駆り立てたのでした。

何度も私の文章の中に登場したお隣の芸北町農協が経営する、芸北大規模草地と呼ばれる大牧場の建設が始まったのが、再生見浦牧場のスタートと同じころ、5団地に分かれているとはいえ、220ヘクタールに及ぶ広大な牧場は、私には夢のまた夢、ここにも学ぶべき技術は存在するはずと、時間をつくっては見学に通いましたね。

当時はまだ珍しかった大型のトラクターをはじめ、外国製の農機具が勢ぞろい、山林や原野が見る見る畑になっていく、私には異次元の羨望の世界でした。
でも、和光農園解散の事後処理でお近づきになれた、県の畜産関係の幹部の方が場長として就任され、お話を聞く機会も増えました。
中島先生の会議室の一件以来、どの先生方も顔見知り、疑問点は丁寧に教えていただきましたね。

2代目から3代目に油木の種畜場の場長先生だった榎野先生が就任された、恩師が身近にこられたことで本部があった雄鹿原には足しげく何度も通いました。

先生には私のように熱心に教えを請うた人間が2人いたのです。一人は私より何年か早く門をたたいた福山の中山さん、当時40歳前後だったと聞きました。彼が広島県で和牛の分野で大成功した中山牧場の先代社長さん、和牛を飼いたいのでと門をたたいたとか。先生の話を聞いた彼は中年に差し掛かった自分には短い時間で学習するには実地に学ぶしかないと考えたとか。「それでのー、屠場の屠夫の助手になっての」と、先生が楽しそうに話されたのです。
屠場とは家畜の処理場のこと、家畜とはいえ動物の命を奪うところ、働く現場は異様な緊張の世界、その順列の厳しさは他業種では想像もできない厳しさがあるのです。40も過ぎた中年のオッサンが勉学のためとはいえ、最下層の助手として働く、少々の勇気では勤まらない、それを勤め上げて必要な知識を吸収して、牛を飼い始めたのです。

市場で子牛を買ってきて、15ヶ月から20ヶ月あまり太らせて市場に売る、肥育牛経営という方式に取り組んでまもなく、一番利益が上がるのは解体して消費者に直接売る最終段階だと気がついた彼は直販事業を立ち上げたのです。既存の精肉販売業者の様々な妨害を受けながら道を切り開いて成功への道を登ったのです。

私は中山さんの後に榎野先生に入門した2人目の民間人の弟子になるのです。

先生の2人の評価は、中山君は商売人でのーと、あんたは農業にこだわる百姓でのー、が先生の口癖でした。時は農民が高収入を目指して突っ走る時代、新分野を切り開こうと苦難の道を歩き続ける弟子を暖かいまなざしで見つめていてくださいました。

中山さんの仕事も大変でしたが、和牛の放牧一貫経営も理想とは違って困難の連続でした。仲間たちが脱落し、公営牧場が閉鎖していく中で、場長として芸北大規模草地の後身の公営牧場を経営された先生は、試験場で立案され試験された基幹技術が小さな周辺技術の集積がなければ成り立たないことを痛感されたのです。

そしてあるとき私に頭を下げられました。「見浦君、申し訳なかった。」と。
驚いて何事ですかとの私の問いに「実は新しい牛飼いがこれほど難しいとは思わなかった。簡単に勧めて苦労をかけている。本当に申し訳なかった。」と。

先生が油木の種畜場の場長だったときに開発、実験された”多頭化放牧一貫経営”、この方式を選んだのは私自身でしたから、苦労するのは自分の選択の結果、他人を恨んだことは一度もない。それを先生が自分の責任のように感じて頭を下げられた、この先生の優しさが見浦牧場の精神的な支えのひとつだったのです。

退官されて西条の実家にお帰りになりました。先生の実家は西条の中堅どころの酒造メーカー。「酒屋が傾いて仕方なしに役人になった」と話しておられました。
西条は仕事の合間に訪問するには少し遠い、でも、来場される部下だった方々に近況をお聞きすると、年をとられて物忘れが多くなられてとのこと、お元気なうちにお伺いしなくてはと時間を作っていきました。
酒蔵に隣り合ったご自宅の縁側におられた先生は目を丸くされました。「覚えていらっしゃいますか」と申し上げると「見浦君じゃー、忘りゃーせんよ」と答えられました。

近況を報告して雑談をしばらく、楽しそうに話される先生は昔と変わりありませんでしたが、お年を召されたの感じは否めませんでした。

「また遊びにこいよ」との言葉が先生との別れでした。それからまもなく老人性痴呆症が始まったのです。旧部下の方々が、「もう俺の顔がわからなくて」と話されるのを聞くのが辛かった。
そのうち、何ヶ月も前になくなられたとの訃報が伝わってきました。油木の場長先生の時に所員に「今日は大物の講習生がくる」と話していた先生、「すまなんだ、和牛がこんなに難しいとは知らなんだ、それを勧めて」と詫びられた先生、その温顔が私の心の支えのひとつでした。

初めて中島先生の会議室でお会いしてから50年近くになります。

先生、見浦はまだあのときの先生の夢を追い続けています。

2011.2.26 見浦 哲弥

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