2007年5月7日

素晴らしかった我が人生

私の文章を読んで関心を持ってくれた後輩君、私の人生は素晴らしい人生だったんだよ。
振り返ると様々な事があった。苦しい事も、悲しい事も、楽しかった事も、反省すべき事も。でも平凡を自認して生きた私には、分に過ぎた素晴らしい人生だった。

 その人生の基礎は、父と母から受けた。
 お前は普通の人間だと、例を挙げて諭してくれた父、あれが私の根本だった。そこから努力の積み上げが始まった。私が普通の人間なら、他人に負けないためには、努力しかないそう思い込んだから。
 母には、人の善意に素直であれと、死の床から諭された。そのおかげで冷血な合理主義者にはならなった。
 あれは、母が末期癌で広島で病床に臥しているときだった。私は、熱心な浄土真宗の信者だった小板の祖父が、母に木彫りの観音様を持って行けというのを断った。「母はキリスト教徒だから仏さんはいらん」と。それを人づてに聞いた母は、苦しい息の下で気力を振り絞って私を叱った。「人の真心には、宗教も、人種も、貧富も、何の違いはないのよ。何故そんな事がわからないのか。」と。ともすれば、独善的になる私が、辛うじて自分を見失わないですんだ、大切な教えだった。

 人生は出会いだと喝破する人がいる。私はそれが運だと思っている。

 私の生き方を変えた人の一人は、流川教会の杉下牧師である。
昭和22年の厳寒のさなか、まだ荒れはてていた広島の夜学で、英語の教師としての彼に出会った。
私が彼に感化を受けたのは、彼の小さな教会のミサのスピーチ。
「体の栄養失調は何時か回復するけれど、心の栄養失調は二度となおる事はない。だからこそ、心豊かに暮らさなくては・・・・。」と。それは、一生の心の物差し。そして、彼は私の人生の師の一人になった。
 私が16歳、先生は30代、可愛い女の子と奥様との3人家族、ミサといっても家族と身内同様の人達の小さな集まり、そこへ友達と2人で参加させて頂いた。お祈りの後の短いお説教の一言が、まだ子供だった私の心に滲み込んだのだ。何度かあった人生の曲がり角で、ふと心をよぎる黒い影を吹き払ってくれた一言。まさに人生は出会い、人生は学舎。

 私の政治の師は、前田睦夫先生。小さな選挙違反でお世話になった。
 彼は加計町の3名家の一つ、前田家の跡取り。若いころから社会主義運動に参加し戦時中は投獄もされた、反戦運動家。私のどこが気に入ったのか分からないが可愛がって頂いた。先生は50台後半に交通事故で亡くなられた。
 その3回忌が加計町の旧前田家であった、その折のことである。
当時、先生のご家族は息子さんの勤務地、東京に転居されていたが、奥様が帰郷されて開いた、ごく近親者の集まり。会の半ばで、故人の思い出を一言づつ話す事になって、何を話そうかと迷ったのだ。月並みの先生の賛辞なら簡単だが、先生と私の関係を表現するには物足りない。そこで、エピソートを話すことにした。それは次のような内容だったと記憶している。

「あれは、社会党の集会の後、先生の広島のお宅に泊めて頂いたときの事でした。一夜明けて、『おい見浦君、朝飯を喰って帰れや、家内が留守じゃけーの、何にもないがの、冷や飯ぐらいあるじゃろうけー』。先生が並べてくれた朝飯は本当に有り合わせ、冷や飯と漬物、それを何のてらいもなく、楽しそうに一緒に食事をしてくださった。それは、暖かく楽しいものだった。その時思ったのです。”一番大切なのは心ではないか、見栄も体裁も関係ない、こんな生き方があるではないかと”。」 

 集まりが終わり、三々五々解散する人の中で、加計の大ボスの佐々木寿人さんが、私を待ち受けていた。
「おい見浦君、わしゃ睦雄の幼友達じゃが、今日の話の中で、お前が一番、睦雄を知っとった。一度、わしの家に遊びにこい」と、山長者の寿人さんに招待を受けたのです。驚きましたね。でも住む世界が違いすぎる。とうとう、訪問はしなかった。その息子さんが今は加計の町長。勇気を出して行くべきだったのか、ちょっぴり後悔をしている。
でも、それからは一層、わが道を行くが強くなりましたね。

 ここ見浦牧場は中国山脈の背骨、芸北地区にある。スキー場のメッカでもあるが、この地区で牧場を経営する事は、人には理解の外の事柄が多い。
 冬、避難舎が一棟しかない放牧牛群をはじめ、肥育牛群、分娩牛群等等、牛は吹雪の中で寒さと雪に耐える。雪国に人生の大半を過ごした私も、いつまで続くかと途方にくれるほど吹雪が続くこともしばしばである。だから子供の頃は、お正月から2月の初めまでの間にする事は、子供は学校へゆくのと、家の中で炬燵のお守をするだけ、大人は炉端で藁細工、縄を綯い、草履を作るだけ、暗い暗い長い冬だった。
その中で、冬も放牧で牛を飼う、世紀の大冒険でしたね。
 牛は、充分飼料を与えさえすれば、寒さの中でも3ー4日は何とか生き延びてくれる。でも餌が途絶えれば生命の危機が迫まる。1ー2頭ならいざ知らず、200頭近くの牛群に飼料を給与する。1日に2度の除雪をしても20ー30センチも路上に積雪がある。何処まで続くかと暗然としますね。
 しかし、何日かすると必ず日差しが戻ってくる。それを希望として頑張る。そこで見浦牧場の標語が生まれた。

 ”逆境は続くことはなく、好運もまた続かない”と。

 春が来る。辛い苦しい冬の後だから、素晴らしい素晴らしい春なのです。人生も同じ。だから、それを理解して生きている人は素晴らしいのです。

 74年生きました。辛いとき、悲しい事を、何度も何度も乗り越えて、私の人生観が正しかったと自信を持っています。
 私の後輩の貴方は、まだ長い時間をお持ちです。前向きに生きて下さい。楽しい事と共に、辛いことや悲しいことも起きるでしょう。でも負けないで乗り越えて下さい。私の文章に興味を持たれた貴方なら、その困難に負けない力をお持ちのはずです。
たった一度の人生です。悔いのない素晴らしい生き方をして下さい。遠くから、そっと見ていますから。

2005.11.6 見浦哲弥

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