2015年11月7日

廃屋

日本が人口減少に変じて、各所に起きた現象に廃屋がある。もっとも、わが小板で廃屋が目立ち始めたのは、ここ20年余りにもなるか、無住はそれ以前からだから、随分昔からの現象である。しかし、無住と廃屋は大きく違う。とくに解体されることなく朽ちて行く廃屋の住民に与える影響は大きい。まるで年老いて衰え行く我が身を見せられるようで、気持ちが沈んでゆく。

見浦牧場の前にある一軒のお家も廃屋に向けて進行中である。私が帰郷した70年前すでに新築の面影はなかったから、築100年余りのお家である。典型的な茅葺で、私が10代の頃、葺き替えの出役に行った覚えがある。確か40年毎の周期だから、その点からも100年以上の古家であることは間違いない。

旧国道、広島-益田線の道路沿いで小さなお店だった。駄菓子が少々と缶詰と酒と酒のつまみが並んでいた。それだけでは食べてゆけないので、田圃も2-3反あったのでは。親父さんは陸軍の伍長さん、我が小板では親父の陸軍中尉を除くと最高位、何事かあると軍服を着て肩章をつけて現れる小板の名士だった。何しろ小板最古の先住民、某家の分家と来るから、小板の住民は煙たくても頭があがらない。
彼には娘さんと息子さんがいた。でも娘さんは原爆で行方不明になり、息子さんはシベリヤ抑留になった。何とか生きて帰る事は出来たが、帰国後の生活はうまく行かず、離婚して一家離散、幸いお爺さんはその前に死んだ、が、家は人手に渡った。

新しい住人は、家に手を入れて大事にした。お店だったところも部屋に改造、住宅としては大きな家となった。時代の流れで屋根は萱屋根に鉄板で蓋う流行の鉄板葺きになった。新住民の改造で家の中は見違えるようになった。立派な仏壇も座り、屋根も5年おきの塗装で、貧乏、貧乏と口癖ながら手入れの行き届いたお家だったが、一人娘さんが町内に嫁いで跡継ぎがいなくなった。それでもお婆さんは家を守った。屋根も塗装をかかさなかった。除雪機も自分で使って除雪もした。しかし、冬のある日、見取る人なく旅立って無住になった。

家は生きている。無住と言うことは、家にとっても終わったということだ。まだ命が続いている間に次の住人が現れれば再生もするが、無住が数年もすると家も死んでゆく。かの家も無住になって、はや10年、屋根が崩れ始めた。あの鉄板の破れの下には仏壇があると人は言う、が゙固く閉ざされた屋内のことは誰も知る由もない。辛うじて窓の破れから見える室内は山積した埃の下に昔の栄光が見える。

小板には廃屋がまだ数件ある。大規模林道の道下にも大きな藁屋根の農家が倒壊している。お爺さんが腕のいい山仕事の職人で、自分の住宅を新築するに当たって材木を吟味して建てたんだ。それがお婆さんの自慢で板の間や縁側に足跡が付いたら大変な騒ぎで、子どもの頃はそれで叱られた。それでも、お婆さんがこだわるだけあって、つやが出るまで磨き上げた囲炉裏端の板の間は、見事だったね。
しかし跡継ぎの娘さんが大阪に出て、老人が死に絶えて無住になると手入れをする人もなく荒れ始めたんだ。
それでも婆様が自慢していた家だけあって、無住になっても往時の姿が崩れなかった。さすがだねと話し合ったものだ。ある年大雪が降って滑り落ちた雪が屋根まで届いた。それが例年になく高いところまで、そして暖かい日に少し融けて凍りついた。その重量で鉄板がずり落ち、棟に大穴が開いたんだ。それでも作りのいい建物は中々倒れない。少しずつ腐ってゆくだけ。倒壊するまで10何年もかかったんだ。そして婆様が自慢だった美邸は残骸と化して醜態をさらしている。

廃屋を見る度に思う。田舎には自他共に認める名家がある。しかし、跡継ぎがいない、いても人生教育がされていない、などで人為的にも滅んでゆく。何代も続いたと言う誇りも、それを裏づけする人間が繋がないと幻に終わってしまう。私の短い人生の中でも数多く見せてもらったんだ。

廃屋を見る度に生き様の廃屋にならないようにと自戒している。

2015.8.8 見浦哲弥

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