2013年5月10日

小板昔日 2

今でも、目を閉じると瞼に浮かぶ風景があります。
田植えが済んで早苗が伸び始めて、一面の田面に初夏の風が吹き渡る。
見浦の大きな藁屋根の縁側で、そんな風景を見るのが好きでした。都会の長屋のちゃちな縁側と違って、荒削りでもゆったりした縁側は、まだ子供だった私には、ほっとする世界でした。
今の見浦より30センチも低い地盤にあった縁側から見る田園風景は、一望5ヘクタール、それはそれは広く感じられたのです。
朝靄に煙って遠くのカヤ屋根がかすんで見える、彩りに柱だけの稲杭が遠近を強調する、稲の葉先が揺れ、畦豆の大豆の葉が露で頭を傾ける、今でもまざまざと思い浮かべられます。
それは昭和16年頃の話、ガソリンが割り当制てになって、あの小さな定期バスは、もう通って居なかった。
運転台の後ろに大きなガス炉を積んだ木炭トラックが、中の甲から加計にあった木炭鉄の製鉄所、帝国製鉄行きの木炭を運んでいましたっけ。私たち悪童が上り坂でスピードの落ちたトラックの後ろにぶら下がる、そんな危険な遊びをしてました。
飛び降りる瞬間を間違えるとスピードが出ていて、転んで擦り傷を作る、恐ろしい目にも会いました。

昔は今のような金肥万能の時代では有りませんでした。少しでも多くの収穫を上げるために畦草や山草を一本でも多く刈り取られて牛の敷き料になり堆肥になりました。
その道ばたや周辺の草刈り場にはゴウランと呼んでいたササユリが花盛りでした。中には二股も三股もありで甘い香りと清楚なただすまいは初夏の風物詩でした。
過疎になり人手の入らなくなった野山は荒廃と乱獲でゴウランも絶滅状態になりました。
今年は1本見たと喜ぶ、そんな自然を見る、悲しいことです。

広島から国道191号線をドライブして、ホテル”いこいの村広島”の下を過ぎ、なだらかな登り道を走ると峠、それが深入峠です。その向かい側の山が”向こう深入”、小板の草刈り場でしたね。

当時の小板は田植えが済んだら山草刈り、草刈り山は2年に1度の割合できれいに刈取らなくてはなりません。怠ると草が荒くなりましてね、牛が食べなくなる。
見浦の割り当ての草刈り場は、長年、年老いた祖父と雇い人で仕事をこなしていたので管理不足、山草でなく柴草でしたね。

4カ所か5カ所にあった草刈り場、あちこちに散らばっていましたが、それぞれに湧き水が有りましてね。それぞれに味が違う、しかも生水で美味しい、番茶を入れて沸かすと更に抜群、お茶の葉の代わりに熊笹を入れても美味しい水、すばらしい大地の贈り物でした。
最近はどこを訪ねても昔の水の味には及ばない、自然が変わったのか、私の老化のせいなのか。

昭和38年、歴史に残る大雪が降りました。1月の中頃まで「今年は雪が少なくて有り難いのー」と喜んでいたのに、連日休みなく降り続く大豪雪が始まりました,初めはよく降るなと感心する余裕がありました。その内屋根の雪下ろしに追われ始めました。しかし降雪は止まりません。雪の重みで家が鳴り始めました。
この年の雪の降り方はシンシンと只ひたすらに雪を積み重ねる、異常な降りかたでした。
誰もが懸命に雪下ろしを始めたのは言うまでもありません。

その内に、降ろすところが無くなりました。幸いなことに見浦家は家の前は小板川が流れています。最初は川の中へ捨てれば水で溶けてくれる、低いところへ降ろせる事は好条件でしたが、その内川が一杯になりました。でも降り止みません。雪を川の中へ積み上げる始末 、最後は川に積み上げた雪が屋根より高くなってついに除雪は挫折、ままよ潰れたらそれまでと屋根の雪下ろしを中止、春になって雪が消えた軒先は全部折れて悲惨な状態になっていました。

最高積雪は4メートル、前代未聞の大豪雪にマスコミは連日報道、奥地は交通途絶で今にも死人が出るような騒ぎと報じても地元の住人は、冬が過ぎれば春がくるよと腹をくくっていました。でも行政はマスコミの手前ヘリコプターに医師を乗せて緊急着陸、地元の住民は雪上ヘリポートの造成にかり出されて、自家の除雪は一時停止、マスコミの騒ぎと裏腹に「何で大騒ぎをするんなら」と冷めた感覚でした。

お宮の鳥居は跨いで通れましたし、配電線は腰を曲げないと3000ボルトの電線に触れて感電する恐れがありました。
当時は、まだ水道がありませんでした。幼子の汚れ物の洗濯に川の水の利用は不可欠でした。雪の下にトンネルを掘りましてね。高さが1.5メートル以上もある本式のトンネル、お米が貯蔵してある倉にも掘りましてね、まさに野ネズミ状態の生活が始まっていました。
ところが、幾ら大雪でも2月も中頃を過ぎると気温だけは高くなり始める。トンネルがドンドン低くなりましてね、しまいには腰を曲げないと通れない。
4月の初めになっても積雪が1メートル近くも残っていまして、苗代が出来ないと急遽ブルトーザで除雪、除雪が完了した翌日に暖かい雨が降り続いて一夜にして雪がなくなったときは・・・・・自然に翻弄され続いた大雪でした。これが後に38(サンパチ)豪雪と称された大雪でした。

翌々年の41年も大雪でしたが、それ以来、年年降雪量が少なくなりました。いわゆる温暖化の影響が出始めたのですが、スキー場関係の人以外は”今年は雪が少なくて、ようがんすのー”と大歓迎でしたが、雪不足対策として各スキー場に人工降雪機なるものが設置され、高価なエネルギーを投入して川の水を凍らしての人工雪をコースに積むゲレンデ作りが日常化して、各スキー場の赤字が表面化しました。なにしろ雪作りの為に3000キロワットの変電所が出来、毎日飛んでもない資金が消えて行きました。そこへ人口減少が追い打ち、スキー客が減って昔日のスキー物語は遠い思い出話になりました 。

スキー場華やかな頃は、小板でもスキー場を作ってあやかろうと、お熱を上げた連中がでました。
「雄鹿原村では一年で24億円の売り上げがあったげなー、小板も雪だけはあるけースキー場を作って一儲けしようやー」。
「エー話があるんど、雄鹿原スキー場がの、ロープ塔(滑降点と出発点の間に太いロープを張って動力で回す、スキーヤーはロープにつかまって登る)廃止してリフトにするんだげな。そのロープの設備を安う売ってくれるげな。それを買ってスキー場をつくろうや」
市場経済という現在の仕組みの中では、人の一歩先を歩かないと何も手に入らない、丁度、栗拾いで人の歩いた後は、どんなに懸命に探しても栗のイガしかない、山国に住んでいて嫌というほど判っているのに、金儲けと言う言葉で盲目になってしまって、自治会の積立金を投資をしろと言う騒ぎになりました。丁度、私が会計係で、そんな馬鹿な話に大切な積み立て金は出せないと頑張ってやりました。

ところが、積立金は集落全員の財産、皆のためにスキー場をやって儲ける、それを止めるとは何事か、多数決で金を出す事を決めると言い始めました、そこで、儲かるか、損をするか判らない内から大切な積立金を出すのは反対だが、皆が賛成するのなら、儲かることが判ってからなら出す、それなら目をつぶると妥協したのです。

喜んだ連中、取らぬ狸の皮算用で、儲かったら積立金で返金するから出資金を出せと金を集めました。欲の皮の突つぱった連中がなけなしの現金を差し出したといいます。出さなかったのは私と都合のつかなかった、もう一人の二人だけ。

あまりのことにあきれたのですが、一言アドバイスはしました。
「儲けるためには、お客さんに来てもらわにゃ、宣伝がいるで」
それには賛成する人がいました。
「広島にビラを配りにいこうや」。
後日、そのメンバーの一人にビラ撒きの後日談を聞きました。
「どこで、ビラを配ったのかい」と聞くと、「広島駅」と答えました、「どうだったらー」の問いに、吐き捨てるように「もう二度といかん」と。
どの様な設備と聞かれて、正直に答えて笑われたのでしょうね。時はシングルリフトからペアリフトに変わり始めていましたから、ロープ塔のスキー場を新設と聞いて失笑されたのは当然でしょう。
お客さんの来ないスキー場が営業したのは2年くらいかな、スキー客より従業員の方が多い、それが日曜日でというのだから、なけなしの懐からかき集めたお金は雲と霞と消えて嵩むのは借財ばかり、さらばと当時まだ珍しかったスノーモービルを4台ほど揃えて、これではと挑戦、しかしモービルは起伏のある広いゲレンデなくては面白くない、起死回生の妙薬にはなりませんでした。
翌年、配当と称して出資者に幾ばくかのお金が配られました、儲からないのに配当金とはこれいかに、笑い話になりました。それからも手を変え品を変えてスキー場建設の話が持ち上がりました。詐欺まがいの話まで登場して、ともすれば信じがちな善人の村人を止めるのには苦労しました。何年かしてメンバーだった友人を「スキー場建設でご意見を」とからかった事があります。即座に「あの金は、淵に放り込んだ方が、よっぽど気持ちが良かった」と返ってきました。

時代が変わって、暖冬とスキー人口の減少で、各地のスキー場が続々と廃業、スキー場のメッカと言われた芸北地区でも残るのは1社か2社といはれています。でも此の集落ではスキー場の話はタブー、笑い話になるのには、まだ時間がかかりそうです。

もう二十年余り前になりますか、道戦峠の旧国道沿いに始めて別荘建ちました、道路から小道を少しばかり歩いたところ。
それから、いつの間にか集落のあちこちに二十数軒も別荘が増えました。
この地帯は、臥竜山 、深入山、十方山などトレッキングのメッカ、地元の住人が知らぬ間に、リタイヤしたら小板に住みたいと言う人達が増えたと言います。
おまけに、土地持ちの旧家が倒産して所有地が売りに出され事もあいまって、一挙に増えたのです、ところが地元の人の対応が今一だったのです。

小板は江戸時代はタタラ製鉄に関わって生き残り、戦前は米作、大麻など農産物と、木材搬出の林業労働者、木炭生産は製鉄用と民需用などで生き残ってきました。昭和20年の敗戦後は都市復興の建築用木材、都市の台所を支える木炭の生産で賑わいました。都市が復興するに連れ、製紙の原料としてのチップ材の出荷も盛んになりました。
ところが都市が復興し日本の経済が発展を始めると人口の流出が始まりました、38の豪雪は契機になりました。最初に移住したのは、何処だったか忘れましたが、一軒が消えると次々と続きました。残留を決めた家も新しい事業で都会に負けない生活を夢を持ちました。お隣の松原が建設業に転進し成功したのをみて、安易な挑戦を始めたのです。結果は無惨な敗退、5軒あった「分限者」と言われた小金持ちが消えました。もっも大畠は敗戦前後に没落しましたから、消えたのは4軒ですか?

その間に中国山地の村々は過疎化の嵐に晒されました。谷間の小さな集落は過疎から崩壊にそして無住になり自然に帰ったのです。小板は目下崩壊中。
お隣の空城は3軒になりました。餅の木は1軒、田代は杉林の中に消えました。甲繋も無住のバラックだけ。小板は常住者は、畑中、住福(冬季は広島)、大前、見浦、原田、堀田、田川、堀江、大谷の9軒、内一人暮らしは3軒、50歳以下成年のいる家は4軒、60以下の男性は2人(一人は身障者)、自治会の業務をこなすのは70台を含めても3人しかいない、幼稚園の年少組が1人、これがこの集落の最後の子供で次に幼児を見るのは20年後、危機を通り越してしまったのが現況なのです。

さて、450年余りも続いた、この集落がこのまま森林の中に埋もれるとは考えたくありません。どうしたら再建できるのか、この老人にも名案はありません。ただ言えるのは、この中国山地の自然を生かしながら共存して行く、その道はあると考えています。
豊作の時は柴栗が地面の色が変わるほどなりました。たった一度ですが甘い黄色の木苺に出会って飽きるほど食べたことがあります。ナメコを始め天然の茸の宝庫でした。荒廃した30町歩の開拓地があります。まだまだ小板の自然の中には可能性がある。私は日本は豊かな国だと思っているのです。そしてこの中国山地に再び賑やかな人の声が聞かれる、そう信じているのです。

人の営みには栄枯盛衰があります。小板が再び栄える日、私は見ることはないでしょうが、どんな形になるのやら、この文の続きを書く人に期待をしています。

2012.10.9 見浦哲弥

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