2012年9月2日

カナクソ物語

貴方は集落崩壊のレッテルを貼られている過疎の村、小板集落が200年前までは中国山地の中で当時の産業の一部をになって栄えたことをご存じですか?今日はその話を聞いて下さい。
 
70年前父に従って小板に帰郷した時、家の前の小川に無数の小穴が明いた黒い石が散乱、不思議に思ったものです。何しろ福井の川にも三国の海岸でもそんな小石や砂利は見たことはありませんでしたから。
友人に聞くと「カナクソ」と当然のように答えます。これがカナクソとの出会いでした。小板は川の中にカナクソという小石がある異境だった。

ところが1年ばかりして、ある爺様がカナクソを掘らして欲しいと頼みにきました。小板川が狭い山間に入って曲ったところに何枚かの小さな山田がありました。その田圃の底が現場でした。地名はカジヤ、鍛冶屋さんがあったと聞かないのに地名がカジヤ、随分不思議の思ったのですが、この地方ではタタラバと呼ぶ日本古来の製鉄所をカジヤと呼んでいたのです、お隣の松原部落にはカジヤという屋号もありました。

その田圃の底が谷川に接するところから製鉄で出た鉱滓が流れ出したのが、川の中の黒い砂利だったのです。そう言えば川底に埋まっているカナクソは赤い粉?(サビ)がついていました。鉄サビだったのですね。

例によって、この話しも父に聞きました。彼の話しでは小板には何カ所もタタラバが存在したと言います。

旧191国道沿いの前述のカジヤ、道戦峠手前の国道の向かい側、国道深入峠の深入山中腹のイシカスミ、川下のモチノキの対岸(大規模林道から500メートル?ばかり下流)の4カ所、道戦峠とイシカスミの2カ所は確認していない。
 
松原にも何カ所かあったらしい。一つはホテル「いこいのむら広島」の下流の湾曲した国道の橋を渡った斜面、ここは、この地方で最大のタタラバだったと言います。旧国道の道ばたの29人塚という大きな石碑は、このタタラバが雪崩に遭って死者が29人も出た、その慰霊のため浅野藩の鉄山師、加計さんが建立したとか。

もう一つは戦時中に勤労奉仕でカナクソ運びをしたウシロヤマ(松原自治会の所有林)にありました。ずいぶん山奥だったのは覚えていますが、もうその場所は定かではありません。

この近辺の山には100年を超す古木は数えるしかありませんでした。タタラ用の木炭にするために皆伐されたためです。良質の鉄は出来るものの効率の悪いタタラ製鉄は膨大な木炭を消費したのです。

ともあれ、タタラ製鉄は中国山地の重要な産業でした。

ところで子供の頃に家の前の川端に五右衛門風呂の3倍はあろうかという大羽釜が放置してありました。親父様にあれは何に使ったのかと聞くと、大畠(見浦の屋号)は松原地区のタタラ最盛期に一儲けを企んで、作り酒屋を始めたことがあっそうなと話し始めました。その商売が当たって酒が売れて売れて、倒産したんだと。酒が売れたのに倒産したとは何事かと、さらに聞くと職人は気前よく酒は買ってはくれたものの、支払いは勘定日払いの掛け売りばかり。おまけに流れ職人の中には勘定を踏み倒す奴が仰山でて、とうとう黒字倒産。勘定あって銭足らずの廃業をしたんだ、その名残の大羽釜だと。

酒屋では失敗してもタタラとは縁が続いて、製品の鉄を牛馬の背中につけて運ぶ人足の中継宿として道路沿いにダヤ(馬小屋)付きの農家(宿屋)を開業、自炊ではあったが干し草や藁は準備してあって、小さな中継基地の役割をしていたとか。

そんな関係で芸北地区のタタラ製品運搬の元締めだった加計の前田家と親交ができたとか、後年、ヒョンな事で、社会党の地方政治家だった前田睦雄先生に可愛がって頂く関係ができたのは、そんな繋がり(ちなみに前田先生は前田家の跡取り)。


昭和19年、そのカナクソが脚光を浴びました。

高性能で恐れられた零戦が敵地に不時着したのです。それを無傷で手に入れたアメリカ軍は徹底的にしらべて盲点を掴んだのです。それは軽量化の為に防弾板を積んでいないことでした。後ろからパイロットを狙えば簡単に撃墜できることを知ったのです。

アメリカ空軍の新しい戦術に零戦の被害は激増したと記録にあります。その対策として軽くて強靱な防弾板に使える高性能の鉄板を探したら、加計町にあった帝国製鉄のカナクソと木炭を使った鉄板が最適と判明したのです。それから国の要請で大増産が命令され、この地帯にてんやわんやの大騒動が始まったのです。

それまでは小遣い稼ぎにと細々と続けられていたカナクソ掘りが、役場から何月何日まで何貫匁(1貫目=3.75キログラム)掘り出せと集落に命令が来る。鉄よりは軽いもののカナクソは重量物、道路に近いタタラ場跡しか採掘していなかったのが、それでは割り当てをこなせない、山の中のタタラ場も掘り返されましたね。道路から1キロや2キロも離れたタタラ跡からトンノスという負い籠で運んだのを覚えています。さすがに4キロ離れたモチノキのタタラ場は無傷で残りましたが、場所を知っているのは私以外にあと何人いますか。

むちゃくちゃな戦争ですから子供達も動員されました。高等科(今の中学生)の生徒も駆り出されました。学校のある松原で山の中から負い出しました。遠くて重くて道路脇の集積場に降ろすと秤で計って、「お前は後、何貫運べ」と命令されてへとへと、それから小板まで7キロを歩いて帰る、気が重たかった、たしか家に帰った時は真っ暗でした。


まだありまして、燃料の木炭も大増産。帝国製鉄の木炭は聖湖から丘一つ越した、中ノ甲という三段峡源流の原生林に、大勢の人間が送り込まれての木炭作り。学校があって、お店もあって、集落ができていまして、木炭は出来るのだが、そこから加計の工場まで運ぶのが大事業。砂利道の1車線の山道を製鉄所まで約50キロ、木炭ガスの小さなトラックがダツというモッコの親玉に詰め込んだ木炭を山積みにして運ぶ。3トンか4トン、それよりも小さかったか?

それでも木炭運びのトラックはガソリンの特配があった。急坂にかかるとエンジンにガソリンを足してやる、そのお陰で何とか急坂を越えてゆく。民間のバスはそれがない、登りで満員だったら動かなくなる、男のお客さんは降りて歩く、登らないときは後ろから押す。そんな情勢の中でも精神力でアメリカに勝つと、竹槍訓練。信じた国民も馬鹿だったが、それを命令した東条首相は靖国神社に祭られて代議士が参拝する、何かおかしいとは思いませんか。

あれから70年近く経ちました。子供の頃に見た川の中の黒い砂利は珍しくなりました。やがてカナクソ物語を話す老人もいなくなります。その時はこの文書だけが黒い石の由来を話すことになるのでしょう。

さからう事の出来ない時の流れ、過ぎた時間の向こうからの私の話に、耳を傾けてくれるのは誰かな。

2012.5.18 見浦 哲弥

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