2010年8月10日

ドキュメント 正義の無賃乗車

思い返すと、当時は些細なことと忘れてしまっていたことも、本当は重大な意味があったことがあります。

昭和20年8月5日、私たちは広島の県庁の建物疎開の作業から、本部の庄原の七塚牧場へ呼び戻されました。
おかげでかろうじて生き延びてこんな文章を書くことができ、人間の運の不思議を痛感しているのですが。

派遣されていた仲間は私を入れて5人、建物疎開とは名目で本部の建物修理用の釘の採取が目的でした。
当時は民間には新しい釘の入手など全く不可能でしたから、知恵者の幹部の発案で派遣されたのです。10日ばかりの作業が済んで1日早い引き上げ命令で、広島駅から芸備線に乗車することになったのです。
当時は旅行も大変な制限がありまして、公式の旅行証明書がないと切符は手に入らない、わずかに発売されている自由切符は長蛇の列、それでも入手の可能性は限りなくゼロに近い、敗戦前夜の混乱の世界でした。

私たちは建物疎開に派遣され、本部に連絡のための旅行と書かれた証明書を持っていましたから、行列を横目に簡単に切符を手に入れたのですが安心したのが悪かった。

広島駅に着いたのは5時ごろだったと思います。切符を手に入れなくては安心できないと、長い行列をしり目に公用の窓口で簡単に切符を買って、さて乗車までは時間がある、駅の周りでも見てみるかと歩き始めてすぐ、仲間の一人が切符がないと騒ぎ始めました。しまい忘れかと服から荷物まで徹底的に調べても出てこない、本人は泣き出すし、皆も青くなりましてね。証明書は切符と引き換えですからもう一度買うことはできません。いまさら行列に並んでも買える目途は立ちません。落としたのかと歩いた道を何度も回りました。当時の切符は貴重品ですから、拾われたら最後出てくる気遣いはありません。
乗車の時間は刻々と迫ります。仲間が「もうどうにもならんで、本部に帰ったら幹部に迎えにきてもらうけぇ、お前はここへ残れーや」と言い出しました。えらいことになったと泣きべそだった彼が遂に大声で泣き出しました。「おいてかんでくれー」。

その時、ふと思ったのです。キセルはできないかと。小板に帰郷する小学5年生まで毎年夏休みには家族全員で福井から広島までの汽車旅行が恒例でした。
駅で切符を買い、改札を通る仕組みは仲間の中では私が一番よく知っている。

当時の混乱の中でも、見送り人用の入場券は誰でも自由に買うことができました。ですから私が考えたように入場切符を使って列車に乗り込むキセルという不正乗車をする人は少なくはなかったのです。
対策として車内の検札は厳しかった。ただ、ぎゅうぎゅう詰めの満員だと車掌さんが仲を通って検札に歩くことができない。それを期待したのです。
もうひとつ、降車駅で改札を通るときの問題があるのですが、父が改札を通るとき、家族全員の切符を扇形に持って駅員さんに渡していたのを覚えていたのです。怪しいと不審をもたれなければ、1枚1枚調べはしない。枚数と人数を確認するだけ、それならうまくいくかも知れない。

「一人置いていかないでくれ」と号泣する向井君(彼の名前を思い出すのに20年あまりかかりました)を見て、こりゃ置いては帰れん、大バクチになるが仕方がないかと考えました。

そこで皆に相談した。実は1つだけ方法があると思うけど、ばれたらただでは済まない。警察が憲兵隊かとにかくトンデモナイ目にあうことになる、それを承知ならと相談すると、号泣している向井君を見捨てて帰るなどと無情なことを言う仲間はいませんでした。置いていかれるのは自分だったかもしれないと思うと、人ごとではありませんでしたからね。
「一緒に帰れる方法があるのなら、それをやろうや。」そこで入場券で乗車して改札口を出るときにごまかす方法を話したのです。
原爆前夜の広島駅は招集された予備校の兵隊さんや見送りの華族、買いだしで田舎にいったオバサンたち、私たちのような動員された学生など、さまざまな人でごった返していました。今でも目を閉じると広島駅の大ドームの下の人いきれを思い出します。

さて、衆論は一致しました。入場券も買いました。予定の列車にもぐりこみました。客車は満杯で立錐の余地もない、これは幸いと思いましたが用心したほうがいいとトイレの前で頑張ることにしました。検札があったら向井君をトイレにいれて他の連中は陽動作戦をするのが打ち合わせでした。
幸いにもあまりの満席で車掌が通路を通れない、恐れた検札はかなったのですが、三次に近付くにつれ、車内が空いてくる、恐ろしくてね。
三次と甲立の真ん中ぐらいでそれまで離れていた芸備線と国道54号線が並走するところがあるのです。三次に肥育牛を出荷するときにそこまで来て線路を見ると、あの時は恐ろしかったなと、恐怖がよみがえってきましてね、何十年も消えませんでしたから、よほどのことだったのですよ。

三次を過ぎるともうすぐ、当時は”山之内東”(現在は七塚)が降車駅、30分もかかりません。5人で何度も何度も打ち合わせを繰り返しました。
私が先頭で切符を5枚見えるようにして改札係に渡すこと、全員は大声で挨拶をして改札口を通ること、駅の明りが見えなくなるまでゆっくり歩いて絶対に走らないこと、ばれたら警察か憲兵隊かでただではすまないことをよくよく考えて申し合わせには従うこと。

駅で降車した人は私たちの他は4-5人だったと思います。真っ暗でしたから8時過ぎごろだったでしょうか「ただいま帰りました」大声で挨拶をして打ち合わせどおり、私が先頭で改札口を通りました。駅の照明がやけに明るく感じて、いつ「オイ君たち」と声がかかるかと、戦々恐々としながら、でもゆっくり歩きました。
駅を出ると20メートルばかりで曲がり角、戦時で街灯は点灯していませんから、そこからは真っ暗、がそれまでが長かった。
全員が陰に入ったとたん、誰が言ったか「走れ!」釘が入った重いリュックサックを背負って全速力で走りました。山道に入って何処でも隠れられるところまできてよ、誰言うともなく「助かった」と、へたばりこんだのを覚えています。

この話は誰にもしないと約束して本部に帰りました。「御苦労だった」といわれても、いつばれるかと心配でした。
しかし、翌日は原爆が落ち、10日もしないうちに敗戦と大事件が続いてこんな小さい事件は忘れられてしまいました。

しかし、この事件は敗戦で社会も見浦家も混乱に次ぐ混乱、生きてゆくことに精力を使い果たした私は思い出すこともありませんでした。ふと広島から帰ったのは何日だったかなと気になったのは20年も過ぎていたと思います。そして当事者の向井君を思い出したのです。
それが8月5日だときづいた時、あのキセルをしなかったら彼を殺していたと。

長い人生には様々なことが起きます。気がつかないうちに少しは善行をしていたのかな?

向井君、幸せに生きているのかな、もう人生を終えたのかな、私も終盤になった今日この頃、遠い昔話を思い返しています。

2009.7.13 見浦哲弥

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