2008年8月15日

お寺さんは翻訳者

 先日、S豆腐のOさんが、久しぶりにお寺に説教を聴きにいったと、こぼしていました。
何でも、集落の物故者の法要とかで、久しぶりでしたね。と。
ところが、お坊さんの説教のまずさに、時間が過ぎず、大変でした。なにせ何を伝えようとしているか、全く判らないのだから、あれなら見浦さんの文章を読んだほうが、まだましですと。
 自分の拙い文章が優れていると思い上がってはいませんが、お寺さんの説教のまずさには、閉口している私ですから、大いに同感しました。
 しかし、そんな話を聞くと、もう20年になりますか、事故で死んだS寺の若い跡取りのお坊さんを思い出します。

 彼が父親の住職の名代として報恩講に来てくれたのは、もう何年前になりますか。彼の姉が長女の戸河内中学校の同級生ですと申し上げたら、私との年齢関係がお分かりいただけるでしょう。
 龍谷大学を卒業して宗教家としてホヤホヤの彼に、先代の住職との触れ合いからの話をしたのです。

 先代住職は彼の大叔父、当時の私は二十歳を越したばかりの血気盛んな若造。父が、これからはこの子が大畠を引き継いでゆきます、よろしく。と紹介しました。
 そのとき私は申し上げたのです。
私の代になりましても、家としてはこれまでどおり檀家としてお付き合いさせていただきます。しかし、私が浄土真宗の信者になるかならないかは別です、と。
16歳のとき出会った流川協会の竹下牧師さんの、「体の栄養失調は治るけれども、心の栄養失調は治らない」の説教が心に染み入っているので、それを越す説得力がないと他の教義は受け入れることがないでしょう、と。

 その話から、若い彼は、本気になって私を論破しようと、議論を仕掛けてきました。しかし、彼の論議は頭の中で組み立てた論法、仏陀が自然の真理で辿り着いた仏法の真髄で説得しない限り、自然の中で暮らしている私には勝てません。でも次の年の報恩講にも、僕はこう考えたが、と真剣でした。
 何度かそんなことを繰り返すうち、私は彼は本当の宗教家になれる、信者が求めている心の叫びに応えることのできる、浄土真宗の通訳者になれると本気で考えるようになりました。

 それから毎年、彼が報恩講の導師として来場するたびに、お互いの考え方をぶつけ合って議論しました。もちろん、彼と私が親子ほどの年齢差があることなど、意識はしなくなりました。彼の心の人間に対しての暖かさが本物と判るにつけ、彼に対する期待が大きくなりました。彼も、私の自然の子としての生き方が判るにつけ、僧侶としての立場を離れて、それを理解しようと努力するようになりました。
「見浦さん、貴方の考えを突き詰めていけば、自分の墓は要らないと考えているのでは?」
 彼が私の人生観の中に立ち入った瞬間でした。この時、本物の宗教家が誕生したと思ったのです。この近辺では出会うことがなかった、宗教家としての僧侶に出会ったのです。
うれしかったな!!

 あれは何年でしたか、大きな台風が来ました。中心がこの地帯を通り過ぎ、風の通り道は風神の道路とばかりに大木がなぎ倒されました。風がこれほどの力を持っていようとは。
 小板も何本かの風神の道ができました。家の後ろの松の大木が倒れたのはこのときでした。もし、これが家の方に倒れていたら、私たちの家族は全滅、そんな恐ろしい台風の夜でした。
 夜が明けて被害が明らかになるにつれ、様々な情報が入ってきました。その中に悲しい知らせがあったのです。
 彼が老人夫婦の非難を手伝いにいって、洪水の川に転落、老人夫婦ごと流されて死亡したとの知らせでした。大災害時の行動としては軽率との非難もありましたが、それも若さゆえ、彼の人間としての優しさゆえでした。

 将来、この地区の精神的柱になったであろう彼の死は、ここ、太田川地区の浄土真宗団に大きな打撃を与えたと思っています。あれから彼に匹敵する人間性を持った仏教家にはまだお会いできません。
 神様も仏様も時々は大きな悪戯をなさる。私の残った時間の中で、彼のような宗教家にもう一度お会いできればと、かすかな期待をしています。

 宗教家は教義の翻訳者、でも、ベースに人間としての優しさが必要なのですよ。

2008.4.6  見浦 哲弥

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