2009年2月8日

祖父

 祖父、父の父、自分の血の4分の1が同じ人、とはいっても、私の孫にとっては、はるかかなたの先祖になりますね。ですから、私の孫は、その人がどんな人で、どんな生き方をしたのか、どんなエピソードの持ち主だったか、知ることはできない。もし、知ることが出来たら、彼らの生き方の参考になるかもしれない、そう考えたのですよ。
 そのためには、まず、私の知っている祖父像を書き残さなければ何も始まらない。それがこの文章のプロローグなんですよ。

 見浦家の私の父は弥七、祖父は弥三郎、曾祖父は亀吉、それから先は名前は知らない。
 亀吉の先代、つまり私の曾曾祖父は一家言があったようで、意志の弱かった長男を家からだして、家督を次男の亀吉に継がせた。長子相続制が確立していた時代にですよ。
 その追い出された長男の跡継ぎが住福で、見浦家の血筋は絶えて養子の子供が現在の継爾くん、彼のお爺さんの謙一さんにこの話を聞かされた。謙一さんは、祖父の弥三郎とは仲がよかったようで、今の家と田畑は、弥三郎に勧められて買ったのです。それまでは藤や谷のあばらやが住まいだったというから、当時としては思い切った能力主義だったのですね。

 亀吉は大変な切れ者で、当時建設中だった国道広島益田線の小板通過には、県庁の役人と大論争を繰り広げたとか。その結果、国道は集落を縦断する形で建設された。それが旧国道191号線です。彼の論拠は、主要道路が集落を通らないのでは集落の発展はない、たとえ多少の寄り道になるとしても集落の中を通すべきだと。当時はまだ、交通の重要性が理解されていなかった時代にです。

 それにつけても思うのは、毛利氏の本拠地だった吉田町のこと。鉄道の芸備線は町の中心をはるかに離れて通っているのです。初めて芸備線で三次まで言ったとき、吉田駅がないのを不思議に思いました。国鉄のバスには吉田駅があったのにね。きけば、鉄道が町の中心を通ることには最後まで反対の勢力があったとかで、そのおかげで吉田町は田舎町から発展することはありませんでした。

 そんな時代に交通の重要性を理解していた亀吉は、強引に小板の集落を縦断する形に国道を通したのですから、先見の明があったのだと思うのです。
 道は集落や田畑のほとりに曲がりくねって付いているもの、そう理解している住民は、田圃の真ん中を直線で道路を通した彼を殺してやると騒いだと聞いています。

 しかし、そんな彼にも弱点がありました。理屈では県の役人には負けなかったが、文字が読めなかった。文盲だったのです。ですから、県から文書が来ると息子の弥三郎に読んでもらった。
 ところが弥三郎は文章の要点だけ「なになにだとー」と省略する。亀吉じいさんはそれに腹が立ってもどうすることもできない。悔しくて悔しくて、それなら、と孫の弥七に勉強させたのです。弥三郎がだめなら弥七がいると。ですから、弥七が勉強している時は、どんなに多忙な時期でも特別あつかいだったと。

 弥七のことは改めて記すことにして、亀吉がずば抜けた人材だったことは、伝聞でも明らかですが、それに比べて弥三郎は目立たぬ人だったといいます。私の知る弥三郎は、私たち悪童孫集団のイタズラを目を細めて「ほうほう」と笑いながら見ていた優しい優しい爺様でした。
 昭和16年に帰郷して2年弱たった昭和18年の冬、81で亡くなったのです。私は、父母の死に水をとることは出来なかったのですが、彼の最後には立ち会うことが出来ました。
 真っ白な見事なあごひげの小柄な爺様、今でも、その穏やかな顔が瞼に浮かびます。そして、町内のいたるところで聞かされた逸話から、彼の人柄がほうふつと浮かび上がるのです。
 その中の1つが次の話です。

 ある年、広島のある旅館で弥三郎爺様が1夜の宿を求めたといいます。コート代わりに使い古した赤い毛布(赤ゲットといいましたね)をかぶって、「一晩泊めてもらえんかのー」と。
 宿の女中さんはみすぼらしい姿の爺様に「今夜は満室で部屋はないよ」と断りました。「あがーいんこう、どがーな部屋でもええけー、なんとかしてつかーさいや(注:そんなことを言わないで、どんな部屋でもいいから、なんとかしてください)」と爺様。
 そこで顔をよく見ると、悪い人間ではなさそう。「階段下の布団部屋でよかったら」と女中さん。
「えー、えー、それでえーけー。飯はあるかいのー(注:いい、いい、それでいいから。飯はありますか)」
「火を落としたけー、飯はないで(注:火を落としたから、飯はないよ)」
「そんなら風呂は御願いできるかいのー(注:それなら風呂は御願いできますか)」
「今人がはいっとるけー、空いたらゆうてあげるけー(注:今人が入っているので、空いたら言ってあげるから)」
 さて、真夜中近く「おじーさん、風呂が空いたけー」と女中さんが呼びに来た。そして「風呂に入ったら、掃除をしてお湯を抜いておいて」と風呂場に案内してくれた。
 あくる朝、「昨日は遅かったんで宿帳がまだだったんで書いてほしい。それから宿賃はいくらいくら」と女中さんがきたとか。爺様おもむろに胴巻きを引き出して、札束から1枚ぬいて「これで勘定してくれんさい。それからもう一晩厄介になられんかのー」といったよし。
赤ゲットの爺様が思いもかけず金持ちだったことに驚いた女中さん、帳場に飛んでいって番頭さんに「かくかくしかじか」。
番頭さん、「どこへ泊めたんなら?」「布団部屋」「すぐに部屋を変えてもらえ」とかなんとか。
 前夜とは打って変わった扱いにムカッときた爺様。「お爺さん、お風呂に入ってください」と一番風呂を案内しにきた女中さんの言葉に何食わぬ顔で「ハイハイ、今日は風呂が早いですのー」と風呂にいったよし。
 「女中さん、良い風呂でした」と声をかけられた女中さん、次のお客さんに「風呂が空きました、どうぞ」と声をかけたとか。
ところが、裸になって風呂場に入ったお客さんが驚いた。湯船にお湯が一滴もない。かんかんに怒って帳場に怒鳴り込むお客さん、「この宿はお客に風邪を引かすのか!」と。
 番頭さんにしかられた女中さん「お爺さん、なんちゅう悪さをしんさるんなら(注:なんという悪いことをなさるのですか)」と爺様に文句をいうと、爺様はすっとぼけた顔で「あんたー、夕べ、風呂が済んだら掃除をして、お湯を抜いておけといいんさったで、掃除もしときましたが、どこが間違いでしたかの?」と。
 この話がこの地方で有名なのは、田舎者とバカにされていた人がずいぶん多かったせいなのでしょうね。

 私が小板に帰った年、昭和16年、大畠には林蔵さんとミカヨさんという2人の住み込みの使用人がいました。
 林蔵さんは40過ぎ位の少しばかり知能の遅れた、顔のケロイドがあって一見恐ろしそうに見えたのですが、気のやさしい親切な男、ただし仕事の前はきれなかった。(仕事のできないことを表現します)何しろ牛が怖い、牛を扱う田仕事は又一さんとよぶ通いの男衆と、小学5年の私が動員されて田圃に入らせられる。仕事はできないが表裏のない本当にいい人だったな。私を呼ぶのに、「坊ちゃん」とは絶対に呼ばないで「哲弥さん、哲弥さん」と名前で呼んでくれた。乏しい知識を懸命に伝えようと努力してくれた。
 ミカヨさんというのは、30後半の聾唖者、正規の教育を受けていないので、手話はできないが、林蔵さんに輪をかけた正直もの。かわいがってもらったな、水屋(台所)と畑の世話、ただし、料理は下手だったな、春はゼンマイとワラビなどの山菜とり、空きは柴栗拾いやナバ(きのこ)採り、そんな山国のことを教えてもらった。手真似と声の調子、態度で意志が通じて、身障者と思ったことは一度もなかった。
 小板に帰る前に住んでいた、三国の家の川向うに教育を受けた聾唖の青年がいて、時々彼が普通の大人の人たちと手話で熱心に話しているのを見かけました。周りの人たちも変わりのない付き合いをしていた、そんな光景を見、母からはそれは当然のこととして教えられていたから、ミカヨさんにも差別感はありませんでした。何しろ私の知らないことを山ほど知っている、大先輩でしたから。

 ある時、集落のおばあさんが話してくれた。大畠に世話になった人は多いんよ、と。食べるのに困ったら大畠にいく、子だくさんで大畠から学校(小学校だけど)にいった子供は、あそこと、あそこと、大人の人も少し問題があって働き口のない人も、給料は安いけれど食べさせてもらえると。

 そんな爺様でしたから、孫には優しかった。ずいぶん悪戯をしたのに、母方の祖父には叱られた記憶ばかりなのに、見浦の爺様には一度も叱られたことがなかった。今でも眼を細めて笑っていた顔が頭に浮かびます。でも、目先は見える人だったようで、見浦の爺さんに一泡吹かせてやろうと画策する人も多くて、どんな旨い話をしてもかからなかったとか。かえって裏をかかれて悔しがったとか、そんな話を何度も聞きました。

 そのうちの一つ、隣部落の知恵者が集まって、見浦の爺に一泡吹かせてやろうと、相談をしたといいます。
 何の話で引っかけるか。「あの爺様は頭が回るのは嘘はだめ。しかし、人間だけー、眼のたわんことはあるで、そんなら、あの奥にある山と、この部落の見浦の田んぼと交換ちゅう話はどうかいの」
「そりゃーええで、山奥じゃけー誰も行ってみたものはおらんし、境も丘から丘へ、っちゅうばかりで誰も知らんのだけー、かかるかもしれん。持っとるだけで一文にもならん山と、5反(50アール)の田んぼの交換はおもしろいで。」
 その話を持ち込まれた爺様は「あの田んぼは小板から4キロもあるんで、作るのが大儀になっとったあんたらが、ええのなら換えてもええで」と承諾したとか。
 知恵者共は、見浦の爺様も人間じゃー、このたびは見えなんだのー、と大喜びだったとか。
ところが、爺様、役場を訪ね、登記所を訪ね、隣接地の地主に境界を教えてもらって、息子の弥七にコンパスと平板と三脚をそろえさせて、人の背丈より高い熊笹を踏み分けて測量に入ったとか。
測量して驚いた。その山から流れ出る小川が小板の小川より大きい。出てきた測量の結果は260ヘクタール。見浦の爺様も驚いたが、隣部落の知恵者が驚いた。引っかけたと思ったのが逆で、前代未聞のあほな取引。あんなに広いと思わなかったので、この話は白紙に、といったとか言わなかったとか。悪意で始まったこの取引、爺様は一歩もひかなかった。爾来、このあたりでは見浦の爺様には手を出すな、が教訓として定着したと聞きました。

 後年、神楽団で世襲制度に反対してストライキを、部落の役員会でのタダ酒の禁止を、など、若いくせに一言多い私に対して、「早いうちに芽を摘んでおかなくては」と長老会議が開かれ、年功序列に従わないからと村八分になったのは、前段に祖父の事件があったからでしょう。
何しろ見浦は一代おきに同じような人間が現れるという、風説が定着していましたから。

 しかし、先祖の話は見ようによっては面白い。そして参考になるものです。あなたも先祖の話を探る旅に出ませんか?そして子供や孫に話してみませんか?

2009.1.1 見浦哲弥

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