2010年5月16日

13度

”13度”、これは、この世の中には、まだまだ見落とされている技術の隙間があって、努力すれば私のような無学な人間でも見つけることができる、それが経営に結びついて利益を生み出してくれる。その体験談です。

60年前、敗戦の混乱の中から立ち上がり始めた日本の農村に農業普及員がやってきました。食糧不足で農産物がひっぱりだこ、わが世の春がやってきたと沸き立っている農民に最新の農業技術を教えるために。
役場に駐在した技術員さんは、各集落を回って指導して歩きましたね。ある時は公民館で講義を、ある時はあぜ道で実地指導をと、当時の農村は今では想像もつかないほど活気がありました。

その中に稲作の合理的な施肥の指導があったのです。何しろ肥料は山草の堆肥と役牛の糞尿、ダル肥と呼ばれた人糞尿、ときたま配給があって硫安と呼ばれた硫酸アンモニア、カリンサンという過燐酸石灰、硫加なる硫酸カリが配給されるのですが、なにしろ使い方を知らない。
現在の化成肥料は作物ごとに3要素が配合されていて、しかもとける早さまで調整してある。何々の肥料と称するものを施しさえすれば、そこそこに生育して収量があがる、当時はそんな便利で進歩した時代ではありませんでした。

ですから、農民自身が地域の気候に合わせて、品種を勘案して、前述の単肥を配合して施さなければいけない。しかも田畑の土質によってその割合も微妙に変化させなければならない。

硫安をまいたらカラが青黒くなっての、ようできたんだが、イモチで全滅じゃった、なんてのたまう農民を教育しようと行政機関も普及員さんもシャカリキになった。そのてんやわんやぶりを想像してください。

ところが問題が起きた。普及員さんの指導で作った稲が出来が悪い。ひどいのは全滅。よくても半作以下、藁はギョウサン(注:たくさん)できたが、シイラ(注;米麦の結実しない物)が多くての、青玉や白米がおゆうて(注:多くて)の、原因はイモチ病。
農民の信頼はガタ落ち、それでも翌年は来年こそはうまいことやるで、と挑戦した連中がいた。少数でしたがね。
この現象には地域差がありましてね。暖かい地方、板が谷以南では指導が効果をあげている、松原でも小板のような被害はでなかった。

その原因はこうです。まず指導の概略から説明しますか。
肥料は作土(稲の根が張って肥料を吸収する、一般には黒土と呼ばれる耕作されている土のこと)全体に肥料を混ぜなさい。全層施肥というのですが、こうすると肥料が流れにくい、従前はシロカキの時に肥料を撒いていたので、表面2-3センチのところに肥料が集中し、空気中に水に溶かされて流亡する割合が高い、特に窒素は空気中に蒸発してしまう、だから少ない肥料を効率的に使用するために全層施肥をしなさい、こういう指導でした。

ところが、この方法で稲を作ると、まず、稲がなかなか伸びてくれない。肥料不足のような症状をしめすのです。ところが7月に入って気温が上昇するととたんに青黒く見えるほど肥料が効いて急成長を始める、本当は7月の中頃からは葉の色が引いて、茎の中に稲穂を作るために体が引き締まる大切な時期なのに、どんどん徒長する。そんな稲ですからイモチ病の得意先で発病、全滅するというパターンでしたね。

なぜ小板だけがこんなことになるのか、考えて考え抜いてもわかりません。ところがある日、田んぼにはいって冷たいな、と思ったのです。5月だというのに田んぼの深いところは氷のように冷たい。実は没落した見浦家では田仕事にはく田靴という長いゴム靴は買えませんでしたから素足でした。これが幸いした。
もしかして土の中も13度の原則が支配しているのでは、とひらめいた。
稲の生育温度は13度以上と、専門書に書いてあったのを思い出したのです。そしてこれが原因ではないかと。

植物の根は新根と呼ばれる白い新しい根が肥料や微量要素を吸収するのです。根が伸びなければ稲は肥料を吸収することができない、肥料不足を起こす。
そして小板は豪雪地帯、根雪が遅くまで消えない。小学校の入学式に本校の松原に行くと桜が咲いているのに、小板に帰ると山影にまだ残雪が残る。

土は比較的比重が大きい物質、地表から伝わる熱で作土の深いところが13度以上になって、指導どおりの効果を上げるのは時間がかかるのでは?

答えがでました。
肥料の全層施肥は取りやめて、シロカキ(注:代掻き。水田に水を引き入れ、土を砕き、ならして田植えの準備をすること。)の時にまく表層施肥に蒸発が多いとの指摘に対してどのくらい増量すればよいか、10パーセント、20パーセントと、それぞれ試験区を設けて確認をしました。
その結果、確か15パーセントぐらいが見浦家の田んぼの適量だったと記憶していますが。

稲はできました。悪口雑言の村人の期待を裏切って最高の稲が。
イモチ病で枯れるぞとの予測も、普及員さんの指導の適期の予防で防ぐことができて。
大人連中の大反感を買いましたから、私の鼻が高くなって、見たか、の態度だったのでしょうね。

しかし、この出来事で大きな人生の教訓を得たのです。

・世の中には99パーセント正しくても、1パーセントの見落としでゼロになることがあるということ。

・よそで正しくても条件が違えば、取るに足らないと思える見落としも、結果はゼロであること。

・大学や試験場でも普及員さんでも見落としはあるということ。

・見落としは、なぜ、なぜの繰り返しと注意力で私にでもみつけられたということ。

あきらめないことが条件ですが、これが、私の人生の大きな教訓になったのです。

この出来事が文章”信頼”のJさん物語や、新鋭普及員Kさんとの”技術員の農民への理論の押しつけはいけない、技術と情報の提供者であるべき”との論争に発展するのです。

遠い遠い若かりし20代、そしてその後の私の人生を決めた小さな出来事、それは今でも新鮮な教訓かもしれませんね。

今日は懸案の”13度”を書いてみました。

2009.6.23 見浦 哲弥

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