2016年5月10日

スクールバス

毎朝7時30分に赤いマイクロバスが大規模林道小板橋から出発する。我が家の孫三人の通学のためのスクールバスである。
これは各集落ごとにあった小学校や分校が消滅したためである。そのための費用は国や自治体が負担するのだが、相当の金額であろうことは素人の私達でも理解できる。教育の機会均等は国の基本理念であることはいうまでもないが、恩恵を受ける側に感謝の気持ちが薄いのでは国家としての団結力は弱くなるのでは。

私は小板に帰郷して始めて遠距離通学の現実を知った。福井市でも三国町でも10分も歩けば学校に着く。それが小板分校に通う餅ノ木集落の生徒は1時間かけて4キロの山道を通ってくる、小学生も高学年にもなれば体力もつき、差して困難の距離ではないが低学年の1-2年生を庇いながらの登校は毎日1時間の遅刻、複複式の授業だから抜け落ちた教科の補修などする時間は先生にはない、従って期末試験で好得点を取るなどは夢のまた夢、それを小板の連中は餅ノ木は頭が悪いときめてかかったんだ。ところが都会の転校生から見ると餅ノ木の自然の子は私が知らない山のような智識の持ち主だった。

餅ノ木の上級生はどんなに天候が悪くても、都合が悪いことがあっても、下級生を学校まで庇いながら登校する。地元の人間は、当たり前としか評価をしなかったが、私は素晴らしいと思った。だから餅ノ木の生徒とは仲良しだったし、彼等も見浦君と見浦君と親しんでくれたんだ。

それから松原にあった中学校へ(高等科といった)通った。旧国道191号線は深入峠を越えて9キロ近くある。深入峠からはオシロイ谷という近道を走って降りて7km、どんなに急いでも1時間、天候が悪いと1.5時間はかかったもんだ。おまけに、ご存知の太平洋戦争で中学生も勤労奉仕なる強制労働があって作業の終了が夕方の5時ということもあって、校門を出る時は、すでに夕暮れ、山道のオシロイ谷は真っ暗、懐中電灯も何もない坂道を空を見上げて、僅かに見える隙間の下が道と判断して登ったものだ。ちなみに松原の校舎は海抜650m、深入峠は870m、見浦家は780m、従って高低差は220m、その1/3を一気に登る近道は日中も厳しい道、それを中学生が夜道を1人で帰る、今なら人権問題になる。

樽床にダム工事が始まって小板の分校にも生徒が増えた。工事関係の子供さんが通学してきたためだ。最盛期には70人を超す生徒がいたから、当然中学校も分室が出来て本校から先生が通ってくるようになった。小板の生徒が松原の本校に行くのは入学式と卒業式の2度だけになって徒歩での毎日通学はなくなったが、やがて松原の中学校も廃止されて中学生は戸河内中学校に通うことになった。そこで登場したのは寄宿舎制度、私の子供達はそのお世話になった。山奥の小さな学校から人数が多い学校への環境変化は当然イジメが発生した。大きな学校を経験した私は小3で発生したイジメに何とか対応して免疫が出来たが、おかげで高等科(2年制の中学)でも、動員でも、大人の新入りの時も、なんとか対応することが出来たんだ。
人間は集団で暮らす動物、順列をつけるためのイジメは大なり小なり必要悪として存在する、その訓練のためにも小規模校よりは中規模校以上の生徒数が欲しい、その配慮不足がイジメが原因の生徒の自殺という悲劇を呼ぶのだと私は考えている。

最近はイジメによる若者の殺人事件が珍しくない。イジメは悪として完全否定をしている社会にも無理があるように思う。決してイジメを肯定するわけではないが、順列をつけるための一つとして小さなイジメは必要悪の気がするのだ。

とはいえ逼迫する地方財政の中で義務教育とは言いながらスクールバスの配慮はありがたい。暖房のきいた車内は冬季の雪中登校の厳しかったことを孫達は想像も出来ないだろう。

人口減少が始まって各所で学校統合が論議され、実行されて、スクールバスによる遠距離通学が珍しくなくなった。勿論、廃校になる地区の心情も猛反対も理解が出来ないではないが、限られた財源と国民の負担を考えると、一方的な主張は子供達に笑われるのではないか。最低の費用で最大の効果は教育の世界でも例外ではないのだから。

ともあれ、今朝も赤いスクールバスは孫達を迎えに来た。将来、彼達が国家の為に役立つ人にならんことをと祈りながら見送った。

2016.1.10 見浦 哲弥

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