2015年1月6日

酒断

私を知る人の多くは、見浦さんは酒が嫌いと認識している。
事実 酒席は嫌いだし、たまたま 同席しても一滴も口にしないのだから、お酒は駄目のレッテルを貼られているのも当然だが、昔を知る人は本当にしてくれない。

本当はお酒は美味しいと思うし、一汗かいた後のビールは最高の甘露だと感じもする。妹の結婚式で酒の飲めない父にかわつて列席のお客の返杯を受けて回って前後不覚になったこともある。それがある時を境に一滴も口にしなくなったのだから、その前後を知る人が不審に思ったのは無理のない話、「何、俺の杯は受けられないというのか」とすごまれた事もあるのだから。

40年近くも昔の話しです。畜舎を見てきた私は今晩はお産はないと判断したのです。
牛は分娩が始まる一日前位から食欲が落ちる、そわそわする、他の子牛を気に掛ける、など何かしら兆候があるものです。一日の作業の終わりに予定日の近い牛は必ず観察してお産に備える。それでも知らない内に生まれたと言うことが半分以上いますから自然は有り難いのですが。
しかし、難産も少なくはないのです。胎児が大型だったり、産道に入るのに姿勢が悪かったり、奇形だったり、様々な理由で。

でも、人間の介助で大部分の胎児の命を救うことが出来る。それが畜産家の腕前だと思うし、たとえ家畜でも与えられた命を救うことは使命だと考えているのです。

その晩も何頭かいたお産の予定の牛を見て今夜はお産はないと判断して、晩酌を飲んだのです。一日の労働を癒すささやかな休息でした。
ところが夜中になって一頭の分娩が始まりました。しかも胎児が大きくて難産になりました。哺乳類は骨盤の中を産道が通っています。筋肉だけなら伸縮ができますが骨は拡張は出来ません。帝王切開で取り出すか、間に合わないときは胎児を糸のこで切断して取り出すか方法は限られています。しかし、大部分の場合は前足を伸ばしてその間に頭を乗せ、最小の断面にして引き出せば助かる事が多いのですが、産道に入り始めると臍の緒が圧迫されて血液を通じての酸素の供給が遮断されるので、分秒を争う作業になるのです。

正常でも微妙な作業、アルコールが体に入っている状態では気は焦っても体が動かない、指先が思うに任せない、時間だけが空回りする。ようやく引き出した時は完全に死亡していました。最初に子宮の中で手に触れた時は元気で動いていて死産になるとは思はなかったのに。
アルコールが子牛の生死を分けた、恐ろしいと思いましたね。家畜とはいえ命は命、一時の安らぎの為に子牛の命を犠牲にした、飲まなきゃ良かったと後悔しても後の祭り、ほぞを噛む心境でした。

その日から酒は断ちました。悪友達が酒席で一滴も飲まない私に鼻先に杯を突きつけてこれでも飲まないかとからかっても、あの命の消えて行く瞬間を思い出して耐えました。
何年か経ちました。いつの間にか私が酒好きだった事は、誰も忘れていまいました。
そして、見浦は酒嫌いが定着して、何十年も経ちました。そして、煙草も吸わず、酒も飲まずで81歳まで長生きをさせてもらいました。今でもあの夜の子牛の命が消えていった瞬間の悔しさが忘れられません。でも、それが長生きに繋がった。人生は何がプラスで、何がマイナスになるか判らない、不思議なものだと思っています。

2012.3.16 見浦哲弥

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