2012年2月11日

2.26事件と私

2.26事件は昭和11年に起きた、日本陸軍の過激派が起こした政界要人暗殺のテロでした。
昭和天皇の考えを押しつぶして、大陸侵略に日本を引きずり込んだ、平和日本を語るときには忘れてはいけない、忌まわしい、そして貴重な教訓でした。
それが、中国山地にすむ一農民の私の傍らをとおりすぎていった、今日はその話を文章にしましょう。

昭和11年2月21日、東京で陸軍によるクーデターがおきました。
当時困難を極める国際状況の中、平和的な解決を模索するが言おうと、東北地帯の打ち続く凶作で貧困のきわみに追い込まれた農村の救済のため、軍部の予算要求に大鉈を振るった財政、それに反感を持った一部将軍と過激な青年将校が起こした、政府転覆のテロでした。
この事件で、拡大一方の軍備予算に大鉈を振るった高橋是清大蔵大臣、昭和天皇の平和的外交を支えていた木戸内務大臣、軍部の過激派を抑えた首相の海軍大将岡田啓介ほかの政府要人が暗殺されました。

事件後、陸軍の意見を代弁したとて、反乱軍を鎮圧しない軍の優柔不断ぶりに怒り心頭に発した昭和天皇が、「朕の大事な重臣を暗殺した反乱軍を誰も鎮圧しないならば、朕が近衛師団を指揮して征伐する」と発言されて、あわてた陸軍が急遽鎮圧し、首謀者を即決裁判で銃殺、加わった兵隊はその後の危険な戦線に繰り返し送り込んで戦死させてもみ消し、歴史からの抹殺を図ったのです。
巷で噂された本当の首謀者、某陸軍大将は軍の司法官が懸命に立証しようと努力したにもかかわらず、影の圧力で罪を問うことができませんでした。
日本は、これを境に破滅の戦争にのめりこみ、何百万人の国民と二千万人といわれる外国人の命を犠牲にしたのです。

なぜ私がこの事件に大きな関心を持ったか、それは頭から離れない強烈な場面の記憶があるからです。
それは真っ黒な広いお庭に煌々と燃える篝火(かがりび)、喪服を着た大勢の人、黒い着物の母が狂ったように泣いていました。
近親者が集まった松尾大佐のお葬式だと知ったのは、何年か後、5歳の子供が鮮明に覚えているのですからよほどの衝撃だったのですね。

小学2年のとき、通っていた旭小学校の校庭に大きな胸像が建てられました。陸軍大佐松尾大蔵の銅像です。そのころから父や母から2.26と呼ばれた日本陸軍による反乱とそのテロで時の政府の要人が数多く暗殺されたことを少しずつ教えられ、長じるにつれて関連の本を読み、その概要を自分のものにしたのです。
今日では、多くの人がそれぞれの立場でこの事件を論じています。素人でしかない私が論評を加えることはやめますが、青年のころ、父の従兄弟のYさんにこの事件で何があったのかと聞かれたことがありました。当時福井の見浦家に下宿して女学校に通学していた彼女には何も知らされなかったか、事件の巻き添えにすることをお恐れた父母が何も話さなかったのでしょう。そこで、私が知る限りのことを話したら、「哲っちゃん、あんたよく知ってるね」と感心されたのは事件後50年もたってから。

そこで偏見かもしれませんが、私が知る限りのことを書いておくことにしたのです。

当時の首相は福井県出身の海軍大将岡田啓介、元来海軍は幹部養成の仕上げに必ず遠洋航海で世界の各地を訪問する仕組みがありました。
それで装備を維持し、世界の体制に遅れをとらないための研究は陸軍より現実的でした。したがって日本の国力から他国とはことを構えないことを是とする穏健派の指導者が多かったのです。まして、日中戦争解決の目鼻がつかない現実の中ではアメリカやイギリスを刺激しない外交を国是としていました。ところが陸軍は中国の指導者だった蒋介石将軍を支援する米英に一泡ふかすべきの強硬論者が多かったといいます。
その黒幕の総帥が真崎甚三郎対象、彼にそそのかされた青年将校が政府に反対して、穏健政策を堅持する要人の暗殺を目的としたクーデターを起こした、それが2.26事件なのです。

事件当日、義弟の岡田啓介首相の官邸を訪れていた松尾大佐は、玄関の方向で銃声を聞くや、「貴方は大切な体、死んではいけない」と押入れに隠し、壁にかかっていた写真をはずして、「俺が岡田だが」と庭に下りていったといいます。たちまち機関銃の乱射を受けて即死、現在と違って情報の少ない当時、岡田首相の生死は官邸からの脱出が成功して生存が確認されるまで、日本中が息を潜めて様子を伺ったと聞きました。

当時、父は福井第一中学校の教頭、維新革命の妨害をした松尾大佐の一族を皆殺しにするために、金沢駐屯の陸軍が福井に攻めてくるといくので、これで我が一家も全滅か、と覚悟をしたといいます。(母方の野村家は松尾家と縁続きでした)。
青年のときは陸軍の工兵中尉であった父は、福井であった陸軍大演習で福井城の中にあった福井第一中学が大本営(臨時の御座所)になった関係で、当時まだ青年だった昭和天皇のお世話をしたといいます。父が真剣な態度で当時の話をしてくれ、そして巷で伝えられているこの事件に私なりの解釈をもつようになったのです。

反乱鎮圧後、軍法会議が開かれて真相究明が行われることになったのですが、事件に直接関係した将校たちの銃殺でけりがつけられ、本当の黒幕たちに司直の手は及ばなかったと聞きました。新聞その他に公然と指摘された真崎将軍には何のお咎めもなかったとか、皇道派と呼ばれたこのグループに東条将軍や山下将軍が含まれていて、この人たちが日米戦争の口火を切ったのですから、2.26事件は前哨戦だったと理解しています。

昭和16年12月8日、日米戦争が始まりました。第二次世界大戦とも呼ばれる大戦争です。戦争開始が決まった最高機関の御前会議で開戦を渋る天皇に当時総理大臣だった東条が決断を迫ったといいます。
僅かに、この戦争は何年で済むのかと聞かれたとか、それに一年半と答えた東条に、その後長引く戦争にお前の話は違うと責められたとか、業を煮やした東条が天皇暗殺も検討したとか、真偽様々な情報が流れています。

戦後、天皇は戦犯と主張した私に、父は人の噂だけで軽々に判断をしてはいけないと意見したのです。それなら親父さんは知っているのかと反論する私に、「彼はそんな人間ではない」と断言したのです。そして前述の話をしてくれたのです。

歴史が中国山地の片隅に住む私の傍らを過ぎて行った話、どうでしたか?
でも気をつけて探せば貴方の周辺でも大きな歴史の破片が転がっているのではありませんか?ただ知らないだけ、知ろうとしないだけ。

2011.10.1 見浦 哲弥

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