2010年10月10日

中島先生

中島先生は当時広島県の農政部長、広島県庁の歴史の中で最年少で部長になられた秀才、その人との出会いが、私の50年の和牛との付き合いの始まりとなろうとはね。人生は不思議なものだなと痛感しています。
その小さな出会いが日本畜産の一部門、和牛界に一石を投ずるかも知れないと来れば・・・・・。
私は皆さんに、一喜一憂をしないで、懸命に生きていれば、平凡な人間でも充実した一生になることを知って欲しいと思ってこの文章を書いています。

あれは昭和40年のことです。私は何戸かの農家で農業会社を作ったのです。参加してくれた農家は5軒でした。
時間から時間の労働、労働成果に基づく月給制、当時はそんな考えの若者が全国に多くて数多くの組織が出来ました。この周辺で生き残っているのは、広島では有名なナシの幸水園、山口の船方総合農場等々、もっとも我が農園は3ヶ月で破綻しましたが。

私の農業会社、和興兄弟農園が崩壊した経緯は又別の機会に報告しますが、今日はその後始末の中でおきた出来事の話です。

当時、国もそれまでの零細な農家では世界の中での競争には生き残れないと、再編して経済的に足腰の強い農家に育てる事業に力を入れていました。その一つが農業構造改善事業だったのです、勿論我が農園もその対象で行政機関が動き始めました。私達の計画で何を指導すべきか、どうすれば補助金や融資の対象になり得るのか、もう多くの機関が走り始めていました。
それが、スタート直後に崩壊したのですから、取り組んで頂いた方々には大変なご迷惑をかけたのです。私はお詫びに行くのは当然の義務だと思ったのです。
メンバーに相談したのですが、事業は中止したのだから、もう世話になることもない、だから謝罪に行く必要はない、が答えでした。

でも私は納得できなかった。善意の人に迷惑を掛けたのなら謝罪するのは当然、それが父母の教えでした。
そこで暇を見つけて頭を下げて歩きました。役場、農協、地方事務所、農業普及所、そして最後に県庁を訪れたのです。こう文章に書いてしまえば簡単ですが、失敗を謝って歩くのは辛い仕事です。「すみませんでした」だけでは済みません。必ず理由を聞かれる。他人に責任を負わせるのは簡単なことですが、考えれば私の未熟が総ての原因、そんなことは出来ません。針
の筵に座るとはこの事でしたね。
おまけに仲間達からは冷たい視線、その最中でしたから、よけい辛かった。
でも、ここで逃げてはと自分を励まして後一つの県庁を訪れたのです。受付で「畜産課長さんにお会いしたい」と申し込んだときは、これで終わりと腹が座りました。ところが受付嬢が電話を掛けて私に指定した場所は、3階の農政部長室。変だとは思ったのですが課長さんが部長室に出かけているのだなと、自分なりに解釈して部長室の秘書官受付に出向いたのです。「戸河内の見浦ですが、受付でここに来るように指示されました。畜産課長さんにお会いしたい」と。「見浦さんか、このイスで待つように」と言われて、秘書官室の隅のイスに座って待つこと2時間、長かったですね。しかし、非は私にあります。これで最後なのだからと自分に言い聞かせて、ひたすら待ちました。やがて部長室の扉が開いて、秘書官が「中島部長です。こちらが戸河内の見浦君」と紹介されたときは驚いて、課長さんにお会いしたいとお願いしたのに部長さんとは、と舞い上がってしまいました。

何しろ、県知事,副知事の次が部長、広島県でもっとも若くて部長に就任された秀才と後で聞かされた、その人に鋭い目で見つめられて「今日はどういう用事で来たのか」と聞かれて、しどろもどろになりながら、途中で投げ出した理由を説明して「申し訳ありませんでした」と頭を下げるのが精いっぱいでした。

黙って聞いていた先生は「謝ることだけで来たのか」と一言、「ご迷惑をおかけしたのでお詫びするのが当然ですから」と、申し上げると「この次は、うまくやるので宜しくと、頼みに来る人間は多いのに、すみませんでしたと謝るために来たのは、お前が初めてだ」あきれていました。が、ちょっと考えられてから「今から会議がある、部屋の隅で話を聞くように」と私に命じられたのです。何しろこちらはお詫びに来た弱みがあります。遅くなるので帰ります、とは言えませんでしたね。

会議室の隅にあるイスに座って待つことしばし、集まったメンバーを見て驚いた。畜産課長を始め、各種畜場、試験場の場長 、畜産関係の科長さん達、広島県畜産の指導者の蒼々たるメンバーばかり、10人ばかり出席されていたのかな、 私は小さくなっていましたね。

議題はアメリカの畜産を視察して帰られた部長さんの報告とこれからの広島県の畜産、特に役牛から肉牛に変換を始めた和牛の振興が主題だったと記憶しています。その為に県内に散在する牧場適地をいかに開発するかに議論が集中したのです。しかしスタートでつまづいて夢やぶれた私には遠い話しでした。
1時間か2時間か、定かではありませんが退庁時間が迫って会議がお開きになりました。やれやれこれでお詫び行脚も終わりだと、ホッとして見上げた窓外の夕焼けが、やけに印象に残っています。
ところが、その時、中島先生が私に声を掛けました「見浦君、今の会議で気がついた点を話してみたまえ」、晴天の霹靂とは正にこの事でした。真面目に聞くのだったと反省しても後の祭り、泥縄で思い返しても人に話すような論点はありません。ぼんやりしていたのですから。

でも一つだけ気に掛かることがあったと思い出したのです。それは会議中に原野や山林を開墾したら土が流れるだろうなと思った事です。
実は小板は年間雨量2100ミリと言う多雨地帯、畑作には特別な耕作方法があったのです。種を蒔くと必ず表面に薄く藁か刈り草を広げる。確かに土は流れにくいし、雑草の生えるのを遅らせる、おまけに少しは肥料になる、優れた方法なのですが、気温が上がって雑草の勢いが強くなると除草は手作業しかない。大きな畑になるとやっと終わったと振り返ると又草が伸びて元の黙阿弥なんて笑い話で、炎天下の草取りは辛い作業でした。

14歳の時の動員で七塚原の牧場で働いて、アメリカ式の畑作を見ました。それは雑草が生えたら、カルチベーターやホー(草を削る鍬)で草を削る、又伸びてきたら削ればいい、その内に作物が生長して地表を覆うから、雑草は伸びなくなる。
作業効率は桁違に高いのですから体にも楽、合理的だなと感心したのです。

ところが、ここ小板は数少ない換金作物の稲作の為に平地や緩やかな斜面はことごとく水田、こんな中国山地の畑は水利が悪くて稲が作れないか、傾斜が厳しくて田圃にならないか、そんな条件のところだけが畑、梅雨や真夏の夕立の時は、このアメリカ式の畑作では大切な表土が泥水になって流れ下りましてね。
父親から借りて耕作した20アールの畑の3年後は斜面の上側は表土がなくなって芯土が出ていました。これがエロージョンと呼ばれる土壌流亡の現象でした。

悔しかったですね。負けず嫌いの私ですから、農業誌や文献を読みあさりました。図書館は遠いし、インターネットはない時代、得られた情報はわずかでしたが、等高線作付けとか、牧草を帯状に栽培する方法とか、世界の各地でも工夫がされていると知ったのです。そして非能率な小板の畑作も、長い年月で考えられた土壌流亡防止の優れた方法だったと理解したのです。

そのことを思い出しながら「先生方の話の中で気に掛かることが一つありました。新たに牧場を開くと言うことですが、これから開発するところは雨量の少ない瀬戸内海沿岸地帯でなく雨量の多い中国山地が多いと思うのです。だとすると土壌流亡をどうして防ぐか、その対策のお話が全くなかった」と、前述の体験と私の思いを話したのです。

ふと気がつくと会議室がシーンとしていました。全員の視線が私に集中していました。「しまった、言い過ぎた」と、冷や汗が出ましたね。何とか話し終えたときは逃げ帰ることだけを考えていましたね。
会議は終了しました。全員が退席したのに、先生は部長室に行って座るように命じられました。机を間にして着席された先生は、ご自分の和牛に対する思いを話し始められました。
「和牛は日本の宝、だがこのままでは生き残ることはできない。いかにして、安くて、安全で、美味しい牛肉を供給するかが大切なのに、現実の農民は本質を離れて高値狙いばかりを追っている。現在の和牛経営は投機なのだ。これを経済合理性に基づいた産業にしなければいけないのだ」と。

50年近くも昔のこと、詳細は忘却の彼方ですが、話の趣旨はこの様なものだったと記憶しています。

しかし、感激しました。農業教育もまともに受けていない一青年に、自分の思いを情熱込めて語る、しかも広島県農業政策のトップが一回りも二回りも年下の私に。
先生の情熱に飲み込まれた私は、夕闇が迫っていることも気にならなくなっていました。

これが私が和牛経営に生涯を掛けることになったきっかけなのです。

当時、広島県は和牛の放牧一貫経営の試験をしていました。母牛30頭で子牛を生産し肥育牛として市場に売却する方式です。しかし一般には子牛生産と肥育牛生産は分離して経営するのが主体でした。(和牛界では子牛を生産する繁殖経営と、その子牛を購入して肉牛に仕上げて市場に出荷する肥育経営とに分離しています。現在でも殆どがこの方式です)
繁殖経営は零細な農家が多く、肥育経営は何千頭の巨大経営を初めとして大型が多い、それなりの問題を抱えている仕組みなのです。

しかし、私達が基本とした油木種畜場の多頭化放牧一貫経営試験も数多くの問題を含んでいました。そして、この方式に挑戦した公営民営の大牧場も、民間の中小牧場も殆どが敗退して行きました。乗り越えなければいけない問題があまりにも多く存在したのです。

見浦牧場は、まだ試行錯誤中の牧場ですが、多くの方々の善意に支えられ、家族が力を合わせる事で、辛うじてここまでたどり着きました。そして思うのです。
中島先生の ”和牛経営は投機ではいけない”の言葉をかみしめながら、これからも、この道を歩き続けて行こうと。

”人生意気に感ず ” 人間にとって出会いがどんなに大切か、今日はその話しを聞いていただきました。

2010.3.31 見浦哲弥

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