2008年1月9日

小板昔日

 私が小板に帰ったのは、昭和16年4月、60年余りも昔になりました。
 広島の左官町にあった、三段峡バスの始点から半日がかりの小板は、山奥のそのまた奥の秘境でした。今は廃校になった小学校と、氏神の河内神社にしか、昔のよすがを偲ぶしかありません。天井と車体の後ろに荷物かごをつけたフォードの小さいバス、土ぼこりを舞い上げて、飯室の峠を超え、太田川のほとりを延々と走って、虫木のつづら道を這い上がり、松原の集落で息をつく。まもなく深入山の山道を登りつめ、広島県の国道最高点890メートルの水越の峠(タオ)を過ぎて、山間に忘れられた十数件の人家、それが小板でした。
 当時、小板は26軒、上(かみ)から、上田屋、藤盛、田屋、住福、宮田屋、大前、富士野、大畠(これが見浦)、藤田屋、藤政、松広、田尻、田島屋、仁井屋、原、世賀井田、新宅、田川、小松屋、城根、出本、和泉屋、大下、堀田、中屋、今田屋。この中には、若い人は知らない家もあるでしょうね。

 明治の終わりごろに作られたという、広島から益田に続く一車線の国道を、小さなバスやトラックが、もうもうと土ぼこりを上げて走る。雨でも降ったら大変で、穴ぼこだらけの砂利道を車が悲鳴を上げて峠をのぼる。今考えると別の世界ですね。

 この地帯はたたら製鉄で有名な中国山地の真ん中で、集落を流れる小板川には、砂利の中に黒くて重くて小さな穴が開いた小石がたくさんあって、小板にきたときは随分不思議に思ったものです。
それが小板にあったたたら製鉄の鉱滓で、藤盛の上のたたら場から川に流れ出たものだったのです。カナクソといいましたね。
これには後日談があるのですが、自伝2にかきましたからそちらを読んでください。

 小板川といえば、当時は川にも魚をはじめ、いろんな生き物がいっぱいいましたね。
 一番多かったのはドロバエ(アブラハヤ)、馬鹿な魚でね。縫い糸にミミズを結んだだけで釣れました。20センチもある大きなやつがね。ところが友達は誰も食べない。同じ川にいる、ヒラベ(ヤマメ)やゴギ(イワナ)には目の色を変えるのに、ドロバエはゴミ扱いでした。
 好奇心満々の私は、さればとて、鍋いっぱいに釣り上げたドロバエを醤油で煮付けたのです。白身でおいしそうに出来上がったのですが、泥臭くて食えたものではありませんでした。ヒラベやゴギは本当においしいのに、天と地の違いがありました。
もっとも、古老いわく、”ドロバエも春先はおいしいがのー”

 小さなゴリがいましたね。腹の吸盤で川底の意思に吸い付いて、ぴょん、ぴょんと水の中を移動する。三国の竹田川にもいましたが、もっと大きかった。
 テンギリというやつもいましたね。なまずのミニチュアみたいな魚で、少し赤みを帯びていたかな。
 そして泥鰌(ドジョウ)が川の中にも田んぼにも用水路にもたくさんいました。
 それが、いまは、数が激減するか、いなくなりましたね。
 除草剤や農薬のせいだと思うのですが、農業が楽になるのと反比例して自然がこわれていった、そんな気がしています。
 小板川は三段峡の合流点に大きな滝があって、魚切になっているので、鮎も鰻も登ることができません。ただ、泥亀は応戦原の堰では時折見ることがあって、捕まえたときは大喜びでした。

 そんな小板の川の変化は50何年前、PCPという除草剤が使われたことから始まったと思っています。
 小板に最初に入った除草剤は24Dというやつで、有名なベトナム戦争の枯葉剤作戦で使われた代物でしたが、この薬では田んぼの生き物が目の前で死んだ覚えはないのですが、その次に入ってきたPCPは、撒いたとたんに、おたまじゃくしやみみず、ゲンゴロウなどの生き物が地表に這い出て死んだのです。田んぼの表面が真っ白になったときは恐ろしかったですね。
 確か1年か2年でこの除草剤は手に入らなくなりましたが、時代が変わるときはとんでもない商品が出るものです。もっとも使うほうも無知でしたが。小板川の変化はこのとき始まった、そんな思いがしています。

 私の家、大畠の前に深入山がそびえています。深入山の本峯は少し低い前深入山の影ですが、見慣れているので、こちらのほうが形良く見えます。この山が死火山だと知ったのは、随分後のことです。
このことを知ったとき、そういえば頂上に薄くはがれる変な石がたくさんあったなと思い当たったものです。
母岩の褶曲でできた山ではありませんから、雨水が地中にしみこまない。だから日照りが続くと湧き水がすぐ止まるのです。
田屋のかみの川床に、地元の人がナメラと呼ぶ、ひびのない岩盤が見られます。
小板が水で苦労をしたのは、これが原因でした。
日照りになろうものなら、飲み水のあるのは3軒だけといわれていましたから。
大畠はその幸運な3軒のうちの1件で、水のない不自由を理解していませんでしたね。
もっとも、チョロチョロと背戸の横穴から流れ出る水は、飲み水が精一杯でしたが。

 昭和45年に小板地区の農業構造改善事業が始まりました。60ヘクタールの農地を新設して、6戸の牧場と6戸の黒牛の兼業飼育農家を作ろうという計画でした。

 その牧場や飼育農家のために、専用の水道を敷設する、その話しが地域に説明されたとき、吉政頼人君が、リーダだった私のところに抗議してきました。
「小板の皆は水に不自由しとるんぞ、なんで皆のところにも水がいくように考えられんのか。」
 言われて初めて考えの足らないことを思い知りました。役場に駆け込んで、補償工事がないと、地域の賛成が得られないと交渉しました。やっさもっさの結果、全戸に配管し、1個の水栓を町と県の補助でつける、その代わり、この事業に反対はしない。それで部落の了解をとる、ということになりました。

 しかし、その会合が大騒ぎとなりました。
 何人かの人が「てめーがこんな事業を考えるから水道をつけることになる。昔は川の水を飲んでいたのに、いらんことをするな」と大変な騒ぎ。日ごろから出すぎると私に反感を持っていた、保守派というか守旧派の連中の総攻撃でした。覚悟はしていたものの、誰一人私を支持する発言がないのには参りましたね。
 ところが会合が終わって散会し、家々の明かりが消えた深夜、我が家の玄関の戸をたたく人がいます。
まだ眠りについていなかった私たちが何事かと戸を開けると、向かいのMのお爺さんが立っていました。
「まだ電気がついていたんで、起きておりんさるとおもうて来た」と。そして、玄関に入るなり、両手をついて頭を下げられました。「見浦さん、今晩は申し訳なかった。」
驚きましたね。いや、驚いたなんてもんじゃない。驚愕でした。相手は私の上級生の父親、親子ほどの年の違い、その人が手をついて謝られる、何事が起きたかとおもいました。
「何があったのかはしりませんが、手を上げてください。よかったら、話を聞かせてください」と。
 お爺さんの話は、私の知らなかった水に不自由している人々の実態でした。

 小板は深入山という死火山のふもとにあります。褶曲でできた山々は岩盤のひび割れの中に大量の雨水をためることができるのに、粘質の溶岩でできた深入山は日照りが半月も続くと飲み水に事欠くようになります。その話しは既に書きました。
 小板で、真夏の日照りで水切れを起こさない水源は3箇所、幸い見浦家の水源はその一つで、その点は幸せでしたが、その他の家では、飲み水はもらい水だったのです。
 ですから、風呂水などは川から汲まなければなりません。Mさん曰く、「夏の日切れには、風呂の水を変えることができないのよ。仕事に行かなきゃ飯がくえんけーの。川へ水汲みにいくことができんのよ。じゃけー、10日も同じ風呂にはいっての。泥水に入るようなもんで。」
 初めて知った悲惨な実態でした。真夏の労働で汗だらけの体を癒す最低限の楽しみも、この有様だったのです。そういえば、他の人たちも水が枯れかかった小川で水浴をしていましたっけ。
 「そんな中で、無料で水道がつく、こんなうれしい話はなかった。それなのに、見浦さんの提案だと、攻撃される、牧場を始めるから水道の話になった、昔は川の水を飲んでいたんだ。
馬車や牛車が通っていたころは、雨が降ると川に道路の水が流れ込んで、牛糞や馬糞が水船にういていた、小板の水の不自由には皆泣いていたんだ。それなのにあんたのことを応援するものが誰もおらなんだ。
 わしも何度も本当のことを言おうと思ったんだが、口から出たら村八分になる。それで恐ろしゅうてなにも言えなんだ。申し訳なかった。」と再び頭を下げられたのです。
 そして、「あんたは間違ってはおらん。わしと同じ考えの人間は他にも何人もおるんじゃ。どうか最後までがんばって、皆のために水道をつけてほしい」と。
そして「夜中にすまなんだの」と帰られたのです。

 表面から見えなかった小板の裏側が見えた瞬間でした。

 翌日、集落の人たちが連れ立って、皆の意見だから、代表を辞任するようにと、来場しました。
 小板のためにならない、が理由でした。そこで、多数意見なら辞任するけれども、どこが悪かったのか教えてほしい、と聞いたのです。ところがためにならないの繰り返しです。
「私も人間だから間違いもあったかもしれない。将来のため、悪かったところは直したいと思うから、是非教えてほしい」と詰め寄ったのです。
視線を合わせないようにと下を見ている人が何人もいました。Mさんの話のとおりでした。
「○○さんが、お前はためにならん、とゆうとるんだから間違いがない。」最後の答えがそれでした。
「わかったよ。多数決なら仕方がない。やめるよ。それだが、後始末をする時間は呉れろ」と要求すると、「止めるんならそれでええけー」と満足してかえっていきました。

 それからは役場との交渉は腰が入りました。反対派がおとなしくしている間に、水道敷設が後戻りをしないように工作しておこうと思ったのです。
 県の補助金もきまり、工事業者も決まって、もう大丈夫と確信してから、代表者を辞任しました。でも、後段がありまして、工事が始まると見浦のところは水道工事の図面がありません、と工事人が問い合わせてきました。私に対する村八分の始まりでした。

 M爺さんのおかげで本当のことが見えていた私は折れませんでした。幸い飲み水には不自由していません。畜舎用の水は小板川の伏流水に井戸をほって、ポンプアップをして間に合わせました。

 しかし、水道が完成して「毎晩新しい水の風呂にはいれて、極楽でー。見浦さん、本当に世話になったのー」とM爺さんに礼を言われたときはうれしかった。

 この話には、後日談があるのですが、その話はまたの機会にして、今日はこれまでにしておきます。

 世の中には見えないところに本当の姿がある。そのことを教えられた貴重な体験でした。
 社会の上層の人々の、見えない人たちへの気配りができない、悲しい現実をみるにつけ、底辺に住んだ自分ながら、ささやかな幸せを感じています。

2007/8/11 見浦 哲弥

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