2012年7月14日

雪国の教え

1945年12月敗戦の年、国民総動員令で14歳の私も新庄村(現在の北広島町新庄)に動員されていました。敗戦は8月15日、日本中が混乱に次ぐ混乱で動員先の農兵隊に正式に解散命令がきたのが12月の末でした。
今日からは大手を振って帰れると聞かされて、帰心矢の如くで一食分の握り飯と一日分のお米をもらって(当時お米がないと何処でも泊めてもらえなかった)リュックを背負って宿舎を出たのが10時過ぎだったと思います。新庄から小板まで約40キロ、自動車の普及した現在では4-50分の距離ですが、子供の足では1日がかり、懸命に歩けば日暮れまでには小板に帰れると思い込んだのです。

新庄から大朝まではさして登りもなく歩きやすかったのですが、芸北に出るには大谷という大きな峠を越さなければなりません。その頂上あたりから雪が降り始めたのです。足は支給された地下足袋、雪が解けて濡れて、その冷たさをこらえて、家に帰れる、その一心で歩き続けました。
中野村、美和村、雄鹿原村(いずれも現在の北広島町)を過ぎてあと10キロという橋山という集落にたどり着いたときには薄暗くなっていました。おまけに積雪は20センチくらい、街灯もない山道で懐中電灯もなく、途方にくれましたね。
橋山部落は当時6戸ぐらい農家があったと記憶しています。灯りを頼りに一軒の農家の戸をたたきました。囲炉裏端におられた老夫婦が何か用事かと聞かれた。それまで張りつめていた気持ちが途切れてなきながら事情を話したのです。
何処までいくのか、何処の集落のなんと言う家かと確認された後は、早く囲炉裏にあたれ、腹が減っているだろうから飯を食え、疲れているだろうから早く寝ろ、・・・。

翌日は雪も止んでいい天気だったと記憶しています。朝ごはんをご馳走になってお世話になったお礼を言って、「おいくらお払いしたらよろしいでしょうか」と申し上げたのです。動員とはいえ解散時にいくばくかの給料をもらっていました。食事をさせてもらい、泊めてもらった、何とか支払いはできると思ったのです。

ところがお爺さんが顔色を変えて叱りました。「金はいらん。よく覚えておきんさい。雪道で難渋したときは誰でも助けることになっておる。それはいつ自分も雪道で遭難することになるかもしれん。人を助けないで自分が助けてもらえるわけがない。昔から雪道の難儀は助けることと教えられてきた。あんたも忘れんさんな。」と諭されたのです。
子供ながらに心に響きました。でも帰宅してすぐお礼にはいけませんでした。10キロの道は動員で弱った体には遠い道でした。そのうち、仕事に勉強に(独学をしていました)追われて、お礼を申し上げたのはそれから40年後、農協の役員で一緒になったお孫さんに「貴方のお爺さんにお世話になりました。」と。

でも「人を助けないで、人に助けてもらえるはずがない」は私の大切な教えになったのです。

2012.2.10 見浦 哲弥

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