2016年1月10日

山深い中国山地にも遅い春がやってくる。その季節、誰も気がつかないままに、山肌の林の中に細い白線が現れるのを、貴方は知っていますか?住人は春の風物詩の一つと見過ごしているこの現象、それを何故か気になったのは私が町で育った異邦人?だったせいです。

この地帯はタタラ鉄を巡って山陰と山陽が争ったところ、その戦いを阻んだのは急峻な山肌と積雪だった。その山腹を乗り越えるために何本も刻みこまれた道、その残雪跡が雪解けに白線をつくる。ひそかに、ひそかに切り開いた何本もの道、敵対する相手の目をかすめて作り上げたその道が、雪解けに一時姿を現す。そのつもりで見ると、そこここの斜面に遠い戦国の戦いの痕が見える。長い年月の風雪に、ところどころは消え去った白線の彼方に、過ぎ去った時代の中国山地が見えるんだ。

目を転じて集落の中の小道を見る。幅1メートルばかりの古道が田圃や屋敷で消えては現れ、現れては消える。そして谷川にそって峠を目指し、急斜面を下り、雑木林の中に姿を消す。戦いに敗れた落武者たちがたどった道、人足が牛馬の背にタタラ鉄を積んでひたすら海を目指して歩いた道だ。次の宿場の松原には茶店があった。飯を食って牛馬に餌を食わせて一休み、それを楽しみにひたすらに歩く。その遠い昔の小道は今は知る人もなく、心をやる人もいない。しかし、古道にたたずんで目を閉じれば、遠い遠い昔の息吹を感じるはず。貴方は感じないか、草いきれに混じってほのかに漂う歴史の香りを。

集落を縦貫する1車線の道路がある。100年余り前に建設された近代日本の夜明けを告げた旧国道だ。広島から益田まで人力で切り開いた191号線、この道は戦いに明け暮れた近代日本の象徴、舗装のない砂利道だった。その道をフォードの小さなバスが住民を満載して走った。車の後ろに荷物籠をつけて、それでも足りずに屋根にも荷物を積むガードがあった。お客が満員の時は荷物のかわりに若者が屋根の上でガードにしがみつく。非力で荷物満載の車は、峠にかかると青いガソリンの煙を吐きながら、ひたすらにローギヤで走る。体力のない婦人は車酔いに耐えながら嘔吐をこらえる。そんな難行苦行の田舎道、それが中国山地、それが小板、それが幼い日のわたしの記憶。

勇ましい軍人さんの号令で75年前、第二次世界大戦が始まった。アメリカと戦った太平洋戦争というやつだ。あえぎながらでも広島と結んでいた小さなバスは燃料不足で廃業、山間の住民はただ歩くのみ、役場も病院も買い物も、ひたすらに歩く、そして背負う。靴もズックも長靴も、お金持ち以外には遠い夢、藁で作ったワラジとゾウリが履物の全て、一度きりの時間が藁細工と歩くことで失われてゆく。それが当たり前だった、疑問は持たなかった。
だが戦争が始まるとトラックが通り始めた。小さなトラックが木炭を積んでね、加計にあった小さな製鉄所が増産でね、戦争でコストの高い倒産寸前の小さな製鉄所も仕事が増えたんだ。ところが道路は旧態依然、穴ぼこだらけの砂利道を砂埃を巻き上げながらトラックは走り、悪童達の格好の遊び相手となった。登り坂でスピードが落ちたところで車の後ろにぶらさがる、何百メートルかいったところでスピードが出ないうちに飛び降りる。今考えると危ないゲームだったね。手を離す瞬間を間違えてスピードが出ていて着地に失敗、スリ傷を作ったこともあった。

閑話休題、戦争も末期になって国道とは名ばかりの小板の道路に緊張が走ったんだ。トラックの交通量が飛躍的に伸びた、その一つは前にも書いた戦闘機の防弾板、もう一つはイギリスの傑作機モスキートの登場だった。それが影響をもたらした。防弾板の話は別の文章に書いたので重複は避けよう。今日はモスキートの話にしよう。
この飛行機は正式にはデ・ハビランド・モスキートと言う双発の戦闘機、足が速くて、旋回性能が良くて、機体が木製で軽いと来る。おまけに大出力のエンジンを二つ積んで高速が出るという代物、多目的機である。戦争の末期に日本軍がミャンマー(当時はビルマといった)に侵攻した頃から活躍を始めたという。
忠勇無双の日本軍はこの飛行機に散々な目に合わされたとか。わが国は物まね日本と陰口をたたかれたお国柄、木材は沢山ある、日本でも木製の飛行機を作れと軍人さんが号令をかけたからさあ大変。この地帯で唯一残っていた原生林、中の甲谷からブナの大木を切り出してベニヤ板にして飛行機を作るという大計画、泥縄もいいところだが頭に血が上った軍人さんは大真面目、途端に小板の道路は賑やかになったね。

穴ぼこだらけの砂利道、悲鳴を上げる木炭車、手もっこと鍬とショベルの修路工夫さんがつききりで道直し、でもひと雨来ると穴ぼこ道が再現する、まさに賽の河原だった、あの風景は昨日のことだ。

敗戦の混乱が落ち着き始めて、そう1955年頃かな、日本の産業復興の兆しが見えると、隣部落の樽床にダム建設が本格化し始めた。長い前哨戦があったと聞くから、ダム建設の話は終戦後間もなくおきた。
大田川の最後の発電ダムの建設とて、落差も大きく出力も巨大、住民は樽床ダムと呼ぶが、地図上では聖湖と記されている。この地帯でも有数の大きな樽床部落を殆ど飲み込む大工事、1車線の砂利道での資材搬入は無理と15キロ下流の三段峡の入り口からケーブル線を建設、峰を3つ越して建設現場へ直接資材の搬入を始めた。ところが工事用のケーブル線での人間の輸送は危険で資材以外は道路を利用するしか方法がなかった。
そこで冬季でも交通を確保すための除雪が始まった。ブルドーザーが轟音を響かせて積雪を排除して道を確保する。積雪で諦めていた冬季の交通が約束されて病人を橇で搬送する苦労も昔話になった。私もその恩恵で命拾いをした人間の1人。
ところが除雪機械が工事用のブルドーザー、従って雪だけでなく路面もけずる。春ともなれば沿線の田圃は雪と共に放りこまれた砂利が小山になって続く、これには苦情が殺到した。そこでようやく路面舗装が始まったんだ。

戦争をしないと国内は様々な点で改良され進歩する。都市近郊でしか見られなかった舗装道路、アスファルト舗装で夢のようじゃなと感激したのも束の間、舗装がされても道幅や急坂は昔のまま、自動車が増えて1車線での離合(すれちがい)が苦痛になる、対向車がくれば道幅が広いところまで後退しなければいけない、どちらがバックするかで争いになる、なかには居据わる奴がいて小心者が割りを食うこともあって、問題もおきた。

その時期、かの有名な田中角栄氏が登場、政治力を発揮して道路が良くなり始める。なにしろガソリン税なるものを新設、国庫に集まった新税は全て道路改良・新設に向けるというのだから画期的。しかも、その税率たるや、本体のガソリンより高い。その税金は建設省がにぎって全部が道路に使う目的税。時あたかも日本の経済が上昇期に入ってマイカーブームがおき、猫も杓子も免許を取って自動車を買う、それが生きる目的。従ってガソリンが売れる、そして道路にお金が回る、とんでもない循環が始まったんだ。勿論、抜け目のない政治家諸君には土建屋さんから政治献金が潤沢に入ってくる、公共事業が資金源とは怪しからんとの世論はあっても、僻地の道路はあれよあれよと言う間に2車線になり、高速道路に接続し、長大なトンネルが掘削されて、七曲の山道は山の下のトンネルに変わり、歩いて二日がかりだった広島が、マイカー時代の初期で5時間、高速道路を利用すると2時間はかからない。住民は先日までの不便など何処吹く風、当然のように自家用車をぶっとばす。

一家に1台のマイカーは常識で、見浦牧場では乗用車、トラックが計5台、運転手が5人、役場も学校も病院も20キロの彼方、買い物一つでも3、40キロ走らなければ用がたせない。自動車は生命線になって、一人暮らしの老人が車がなかったら生きてゆけない、とんでもない世の中になってしまったんだ。

ところが近代化された道路は昔は夢だった大きな橋やトンネルを建設することで成り立っている。私達が日常的に利用する橋にも何億円もする高価な橋が珍しくない。ところが人工物なのだから耐用年数なるものが存在する。老朽化した時は寒気がするほどの巨額の費用がいるはずだ。人口が減り始め、経済も停滞しがちの日本にそんな資金が何処にあるのかと、いささか不安である。

取越し苦労の老人の呟きを踏み潰すように、今日も家の横の大規模林道を岡山の港から益田の巨大牧場に20トン積みのバルク車(バラ積みの飼料の運搬車)が吹っ飛んでゆく、時代は移り変わる、か?

2014.8.9 見浦 哲弥

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