2016年9月16日

マイカー

我が家の足はインプレッサ、彼は4輪駆動、多少ガソリン食いの傾向はあるが、豪雪地帯の小板では代えがたい能力の持ち主である。勿論、10年落ちの中古車、見浦家に住み着いて10年余りになる。マフラーが錆びて自家修理をしたが遂に新品に交換したと言うからその古さを理解してもらえるだろう。
貧乏の生涯だった私は、たった一度だけ新車を購入した。親父ドンが直腸がんで入院して小板の仕事と看病との二本立てをこなした時、当時の自家用車はマツダのR360と言う軽三輪トラック、新車の半額と言う中古車だから故障がなくて走れば幸運と言う代物。空冷のV型2気筒で360cc 12馬力、当時のマツダは営業用の3輪トラックから民生用の小型車に進出しようとしていて、そこで登場したのがR360。対抗車はダイハツのミゼット、こちらは同じ軽三輪トラックとは言ってもバーハンドル、サドルシート、単気筒10馬力、しかし、頑丈で荷物を積んでよく走る、猛烈に売れ始めていた。後発であるし同じ路線では太刀打ちが出来ない、そこでR360はデラックス路線で対抗したんだ。即ち、丸ハンドル、完全キャビン、2気筒エンジン、等々、これが当たっていっぺんに売れ行きを伸ばしたんだが、その代償は高くて故障続出、その中古車ときたら、まず非力である。公称12馬力が虫木峠を登らない、国道だよ?。チェンジをローにして引っ張るとエンジンがヒートして力がなくなる、こうなると道端で停車してエンジンの冷めるのをまつ、それを何度か繰り返して、やっと峠を越したんだ。当時のマツダはエンジンに関しては技術が低かったね。50年を経て日本の自動車会社の中で注目されるエンジンを何個か持つ現在からは想像が出来ないが。

丁度、父が直腸がんで倒れて広大病院に入院したんだ。かなりの手遅れで手術の成否が30パーセントの状態だったから、広島と小板と掛け持ちで飛び回った。その足がR360、何せ片道5時間ぐらいかかったからね、おまけに故障続出、仕事にならない。手持ちの金をかき集めて当時一番安かったトヨタのパブリカを購入したんだ。トヨタが大衆車向けとして設計した100パーセントの実用車、これは故障知らずで良く走った。今でも名車だとおもっているが、空冷の対向2気筒700cc、28馬力、前輪はトーションバースプリングで独立懸架で4人乗り、シートはハンモックで暖房は無し、徹底的に軽量化がしてあって走りは抜群で100キロ出しても怖くはなかったね。ただしエンジン音はいただけなかったね。ポポポと乗用車らしからぬ音がして遠くからでも音さえ聞けばパブリカと判る、そして空冷だから暖房が効かない、冬は寒くてね、しかし故障知らずの快適で親父の看病に通えたんだ。   
その車重の軽さは雪の多い小板で抜群の威力を発揮して、スタッドレスタイヤ出現前の雪道は頼りになった。スノーチェーン装着で走るのだが硬い雪の上なら底まで潜らない、在来車が悪戦苦闘する横を走り抜けるという荒業が出来た、今でも傑作車だと思っている。
ところが、あのボボボという排気音は不評で販売は伸びなくて間もなく改良?普通の車になった。

新車に乗ったのはこの車だけ、あとは長い人生、中古車との付き合いばかりだった。御蔭で中には名車と呼ばれる車もあって結構面白い車人生だったが、現在は20年前のインプレッサ、基本設計の良さで傷だらけの車体が東奔西走、見浦一族の貴重な足をつとめている。

目下、見浦牧場には2トンダンプ2台、1.5トントラック1台、乗用車1台が活躍中、いずれも中古車であることはいうまでもない。

敗戦直後、数少ないバス便に乗り遅れて花見に来た消防車に便乗したことがある。デフのない昔のフォードでとんでもない走り方をした。それでも車の便利さを痛感させられて、どこへ行くのも2本の脚という当時の自動車は夢の機械だったんだ。あれから70年、日本には自動車があふれている。そして、その便利さを当たり前のように受け入れている。本当は、この時代に巡り会った恩恵として感謝すべきなんだけど、誰もそこまでは思いはいたらない。

今日も牛の出荷で三次まで高速道路を走る、当然のことのように。

2015.8.17 見浦哲弥

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