2017年5月10日

年年歳歳花相似たり

和弥のお嫁さんの亮子くんは見浦牧場の大黒柱である。その彼女が後5年で50歳になると宣った。日々仕事に追われる毎日で自分の年を数えるのも忘れがちだが、歳月の扉は確実に時間を積み上げる。息子の和弥の所に半ば押しかけで来てくれた彼女、3人の健康な孫を見浦家に贈ってくれた、我が家の恩人である。

跡取りと思っていた長男がコンピューターの道を選んで九州で就職、会社の同僚と結婚、やりたい仕事が出来ないからと東京へ、そして40代でそのソフト会社の最年少重役に、彼は彼なりに自分の人生を追いかけた。

そこで後を継いでくれたのが一番下の和弥、ところが時は農村崩壊の始まり、妹が飛んできた「あんた気が狂うたんじゃ無いの、あの子は町でも食べて行ける頭を持っとる、こんな所に残したら嫁さんもおらんで」と。それでも親父さんが「見浦家が潰れる」と訴えた一言は重かった。そして彼は見浦家を継ぎ、亮子君は広島市から追いかけてきてくれた。そして3人の男の子を産んでくれた。それぞれ特徴のある子供たちを。長男は中学2年、私が動員で小板を離れた年になって、大人びてきた。

時は全国的な農村崩壊のとき、国内の食料自給率は30%あまり、1億人に及ぶ人口の食料の大部分を輸入に頼る危険は知識人でなくても感じているが、大変だの声は聞こえるが他人事のよう、戦後の食糧不足のときのような真剣味は感じられない。

農業の復興は人作りなくては不可能だと私は思う。農業の教育は高校から大学まで整備されてはいるが、知識の詰め込みだけで人作りには程遠い。長男の晴弥が九大の農学部に在学中に九大の実習牧場に行った折の報告が頭をよぎる。彼に九大は国立の有名大学、農学部なら研修農場がある筈、見浦牧場で未解決の問題のこれこれを調べてくれと依頼したんだ。ところが彼が報告して曰く、「実習に行ったら、場長が“ここは農業を教えるところではない、農業とはこんなものだということを伝えるところだ”と言った」とか、「親父さん、役に立つ話はなかったよ」と、そこで思い切ったんだ。習えるところが無いのなら自分で実証し教えるしかないと。学問のない1農民が挑戦するには、あまりにも巨大な壁だったが後へは引けない。お陰で家族を厳しい道に連れ込んでしまったのだが、やっとこさ、ここまでたどり着いて文章にしている。役には立たないかもしれないが、これは私の意地である。

幸い私の家族は、それぞれ気性は異なるものの、皆前向きの性格、有り難いことだ。彼等のこれからの人生を見ることが出来ないのが残念だが、生きてよかったと思える家族たちである。

年年歳歳花相似たり、歳歳年々人同じからず、長い年月この言葉を噛み締めながら生きてきた。大切な私の心構えの言葉である。

さあ今日も1日全力を尽くそう。同じ日は二度とは訪れない。明日は明日、今日は今日、前を向いて全力で生きようと、自分に言い聞かせている。

2017.2.6 見浦哲弥

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