2023年6月26日

国道1 9 1号線、改修工事裏話

もう何年昔になるだろう、国道1 9 1号線の改修工事が一時中止になった。その時、はからずも 後始末を仰せつかって、超多忙の毎日の中で、地元の説得やらお役所との折衝やらで1年を棒にふった。当時、金儲け組が新道を種に横車を押しまくって工事が中断、その連中が新道が完成し たら昔を忘れて利便を謳歌しているのを見ると、あの時のことは忘れたかと嫌味の一つも言いたくなる。世間では珍しくはないことだが。ま、文章にして残して溜飲を下げるかと、書き残すことにしたんだ。 

前口上はこのくらいで国道1 9 1号線が建設されるとき、深入山の北側にと運動したのは我が曾祖父の亀吉爺さん、小板の将来を最優先した我儘だったかもしれないが、おかげで過疎が声高に言われて山村の崩壊が始まっても、小板集落は比較的穏やかな住民の減少で壊滅的な激変は免れた。私は亀吉爺さんの国道1 9 1号線の深入山北側コースへの無理押しが遠因の一つだったのではと思っている。その視点からすると亀吉爺さんは先見の明があった。 

ところが頂点の水越峠は海抜8 8 0メートル、ひょうたん曲がりと呼ぶ小さなつづら折りの頂上付近の急坂が降雪時の交通を妨げる。そして堀割った峠は雪のたまり場、ブルドーザーで押しても難所であることには変わらない。それは小板に遅い春をもたらす、国道1 9 1号線の最大の難所だったのだ。 

それを深入山の南側に付け替えれば最高点が海抜820メートルと峠の高さが各段に低くなる。たかが6 0メートルと言うなかれ、中国山地の脊梁を越す1 9 1号線最大の難所だったんだ。それが改修の目玉の一つだったのだから。

貴方は覚えているかもしれないが、功罪半ばの田中首相が日本を復興するには物流の効率化が大切と主張、その一つが道路を改良、整備、新設、して交通利便の改革を図らなければ日本の復興はないと、ガソリン税なる制度を作った。その内容がすごい、本体のガソリンより税金の方が高い、おまけにガソリン税は全部道路改良と新設に放り込むと云うのだからとんでもないと思ったものだ。そして至るどころで道路建設と改修が始まった。砂利道が舗装道路に、1車線が2車線に、曲線道路は直線になって建設業が1大産業になった。○○組などと云う巨大建設会社が出現し、小さな田舎町にも建設屋が乱立した。そして競争に次ぐ競争、起業をしない人間は労働者として比較的高賃金の建設業で働いた。 

ところがもう一つあってね。道路の拡幅や付替えの為の用地買収、これがゴネればゴネるほど値上げになると思い込んだ人達が出現、おまけに、そこ以外に通すところがないとなると地価が暴騰、儲けた連中がでた。金儲けの話はこんな山奥にも伝わってくる。ところが田舎の御仁が知る頃には、すでに時代遅れになっているのだが、金に目がくらむと人間は非常識になって平常心では考えられない行動に出る、そんな人が小板にも現れてね。後始末で難儀をさせられた。

1 9 1号線国道の改良工事の一つは島根と広島の県境から始まって、安芸太田町に向かって進行した。気がついてみればお隣の甲繋(こうつなぎ)集落まで到達していて、物好きにも見学に 行ったものだ。曲がりくねった1車線の道路が2車線に改良されていて、つづら折りの曲線も穏やかに、そして直線に、木造の橋は頑丈なコンクリート橋に変貌していて、凄いねと感心したものだ。 

改修が町境の道戦峠に間近になると、小板にも役場の建設課と県の建設事務所が用地買収の話でやってきた。ときは小板一番の財産家と言われた某氏がちょうど自治会長で小板の代表、用地買収で一儲けと考えたのだから、小板も運が悪い、いや後始末をさせられた私が最悪の被害者か。現地説明とて某氏が案内してここをと指差した土地は彼の所有地、しかも数箇所もあって、その1角を必ず通れと強要、曲がりくねったその路線は改良どころか改悪、第一繋がらない、案内されて呆れた係官の顔は今でも目に浮かぶ。ところがそれを聞いた住民の中から一人で決めるのは民主主義ではないとの声、あわてた某氏、道路改良の会合を開いた。その過程が、あまりにも 馬鹿馬鹿しいので欠席したのだが、出席した人が報告にきて白く、 「各人が最良と思うところに 新設道路の希望線を書き入れてくれ」と、のたまったのだとか。金儲けの話は伝わるのも早い、 自治会長氏が自分の土地のことだけで新設道路の予定線の変更を要求した話は皆さんすでに全員が御承知、遠慮することはないと自分の土地の1角を通る予定線を書き入れた、 6本だったか 9本だったか忘れたが、切れ切れの新道路の予定線が提案されたんだとか。さすがの某氏これには手を焼いた、ご自分の都合はそのままに、関係者を説得するのは不可能と思ったらしい、それで、この道路改修問題はほって置くことにしたんだとか。 

当時、 (現在でも楽ではない)危機的状態だった牧場を放り出して道路改修問題に首を突っ込むわけには行かず、危うきは近寄らずの方針が私の現実だった。ところがお隣の松原の自治会長から「小板は道路改修には興味がないらしいから、松原と板ケ谷の路線から改修をお願いする」と言ってきた。農協の合併の時に、はからずも混乱を収めた事があって、私は松原では小枝の実力者?との認識があっての申し入れ、勿論、買いかぶりだったがね。戸河内から松原にひたすら登る路線は海抜300メートル足らずの役場前から600メートルを越す虫木峠への急坂を登る難所、松原集落の早期改修の願いの強かったところだ。小板が道路改修に反対ならこちらを先に、は当然の話し。云われて、この問題は某氏が自分の都合で放置してあったな、と気がついたんだ。世話をするのは勘弁してもらいたいが、道路の改修は見浦牧場にも出荷や餌の購入で是非ともの事業、それが5~10年も繰延になるとは笑い事ではない、逃げるわけにはゆかなかった。収拾ができないと気がついた某氏が故意に放置したなと気付いたんだ。そこで松原の自治会長氏に、すぐに対策をするからしばらく時間をくれろと願ったんだ。 

ところが松原集落にもこの問題は切実、小板の対応のまずさは絶好のチャンス、簡単には譲ってはくれない。仕方がないので、松原が先行すると云うなら板ケ谷から深入山に道路トンネルを新設するように運動すると脅したんだ、あくどいとは思ったがね、板ケ谷は虫木峠の登り口、地図で確認してもらうと理解できるが板ケ谷、虫木峠、深入山を線で結ぶと正三角形、虫木峠―松原の路線は、この三角形の2辺を走る、板ケ谷と深入山をトン ネルで結ぶと距離は1/2になる。先日、島根県の長大道路トンネルを見学に行ったばかりだから、まんざらの空論ではなかったのだが、これは格好の脅しになったね。松原氏に「判った、待つからトンネルの話はするな、その代わり小板の道路改良は速やかにやれ」と要求されたんだ。 

こうなっては逃げるわけには行かない。小板に帰って中堅のO氏とH氏にこの話をしたんだ。O氏は小さな木材業者、H氏は食品の移動販売の仕事、両者とも道路の改良は切実だった。

 両君とも話を聞いてすぐ行動した、何しろ生活がかかっている、道路改良の内情を知ったからには放っておけない、早速、某氏のところに押しかけて道路改良を促進しろと要求した。ところが何本も予定線を作り上げた原因が自分にあることは某氏もご存知で、それをすぐ解決して役場と県に交渉して 道路改良を進行させるなどとは、お坊ちゃんの某氏は恐ろしくて返事ができなかったらしい。そこで何年も放置しておいて今更できないと云うのなら自治会長を辞職しろ要求して辞任させたと。 

それから両君が今度は「どうする」と聞きにきた、時間がないから自治会の会合を開いて事情を話して私を自治会長に選挙しろ、急いで体制を立て直して役場や県と交渉しなければ道路改良 は松原が先行する、それが嫌なら直ちに行動を起こせと、だだし、O君とH君は道路委員として協力してくれることが条件だがと。勿論、お隣まで伸びてきた立派な道路を諦めて松原に先行を譲るなど、お人好しで金儲け好きの某氏以外に反論する人はいなかったとか。

 2―3日もしないうちに会合が開かれて私の要求が全部通った、そして今度はどうすると来た。勿論、ここまで来れば逃げるわけには行かない。役場に連絡して道路改良の話を進行してくれ、集落の意見は統一したと伝えたんだ。

 役場の担当者は喜んだね、県と間で言い訳に苦労していたらしい、早速、飛んできて打ち合わせ、来たっいでにと現在の大規模林道の交差点(当時は林道は建設されていなかった)付近の所有者に道路改修で用地買収の問題がおきたらどうしますかと聞きに行ったんだ。小板で2番目の 某某有力者をつれてね、ところがここの親父さん、かねてから小板の金持ちを信用していない、 上手いこと話に乗せて利用するだけで裏切るからと相手にしない、某某有力者が「ワシが立ちあって居るのだから信用して」とのたまったが「余計悪い」と話に乗ってこない、ついに役場氏、見浦を呼んで頼もうと云うことになった。そこで呼び出し、忙しいのにね、道路改修の進行を役場に申し入れている関係で行かないわけに行かない、「私が聞いたから、もし話がちがったら自分のこととして戦う」と約束、途端に親父さん「見浦さんが受けあってくれたら前向きに話す」 、と豹変、某某有力者のメンツは丸つぶれ、お陰で生涯「見浦の野郎」と恨まれたね、勿論、底辺の人たちに信頼のない某某氏の家は息子の代で傾き始めて倒産、崩れかかった巨大な藁屋根はまだ 残っているが、所有者は不明である。 

閑話休題、建設事務所がやってきた。「今度は見浦さんが代表だとか、小板の要望は何ですか」 と。 「一つだけあります、改修道路と旧国道の接点が都合とはいえ離れすぎる、できるだけ集落 の中心に近づけてもらうこと」と、お願いした。他はすべて県の方針に従うと、特に場所は指定しなかったが、小さな谷が埋められて現在の乗り入れ口になったんだ。 

工事は急ピッチで進行したが用地買収で問題がでた。杉の植林地で植えて3-4年目、2度目の下刈りがすんで伸び始めた杉林を通ると云う。流石に持ち主の親父さんが頭にきたね、そこで道路委員の3大衆の登場、ところが買収の価格には国が定めた評価基準がある、その項目に当てはめて買収金額を設定する、現場の査定員が勝手に金額を変更するわけに行かない。ところが査定価額が一律でね、何年生だから〇〇円と云う査定。貴方はご存知かもしれないが、 植林は皆伐をして枝葉は横畝に積み上げて畝の間をきれいに刈り払って苗を植える、積雪で傾いたり、食害にあったり、枯れたり、雪起こしあり、植え替えもありで、枯れ苗の捕植もする、その上、 2度目の刈直しありで、 4-5年までが一番、手がかかる、その前半があって造林した木が やっと伸び始める、買収する植林地はその段階だった、やれやれと思ったところに買収騒ぎ、文句を言ってきたから自治会長として聞いた、買収の査定には一本一本切って年輪を数えて査定す るのかと、査定官いわく、そこまではやらない、それなら、せめて10年くらいの年数の評価をしてもらえないか、それで終わりと云うことで、と。査定官が渋い顔をしたのは云うまでもないが、こちらの言い分を真剣に考えてくれた、それで話が纏まるのならと。ところが欲張りのご当人これは交渉次第でいくらでも値上がりできると思い込んだ、10年生ではまだ足りぬ、40年で査定しろとね、さすがに査定官も、この無理難題には承知しかねると相談にきた。「ほっておきましょう、どうせ工事は5-6年はかかる、その間に解決がつかなければ公用地の強制買収の法律を適用しましょう、地元は反対しませんよ」と。係官は喜んだね、それきり欲張り爺様のとこ ろには係官は現れなかったとか、欲張り爺様は見浦の世話にならんでも県庁に勤めている友人に頼むと憤慨したとか、それでも工事は着々と進行、爺様期待の友人氏の世話の話が聞こえぬうちに解決したらしく、完成時に所長さんが挨拶に来て日く「大変お世話になりました、何か記念品を差し上げたいが」ときた。「滅相もない当然のことをしただけ、鉛筆の1本でも貰ったら私の信用は丸つぶれになる」と丁重にお断りしたんだ。 ちなみに申し添えるが道路用地に私の山林も買収されて2 0 0万円余の代金をえた、ところが道路問題で飛び回った関係で牧場も2 0 0万円を越す大赤字、資金ぐりで四苦八苦の見浦牧場には痛撃だったね、ゆきががりで道路改良に付き合ったのだが厳しい選択だった。 

しかし、新道で問題を起こした連中が颯爽と利用するのを見ると、嫌味の一言も言いたくなる。そして私は大人物ではなかったなと、自分に言い聞かせている。 

2021.1.18 見浦哲弥

2023年2月21日

町議選

お隣の元町議会議員だったご婦人が亮子くんを訪ねてきた。今年は我が安芸太田町の町議会議員の改選期である。思い出せば私も政治の師、前田先生の勧めで町会議員に立候補したことがある。見事に落選したが私の人生には幸運だった。それはその選挙で人間の裏側をまともに見ることが出来たからだ。応援をすると自己推薦でやってきて見浦には絶対投票するなと運動した自称友人がいて、将来自分が選挙に出るときに障害になりそうだから潰しておかなければとの考えだったようだ、そんな人が何人かいた。世間知らずの私が知らなかった異次元世界の一面だった。 

私は侍の子として育てられた。卑怯なことはするな、弱者には配慮をが母の口癖だった。おまけに親父さんは天下無類の正義漢で、努力する生徒には無償の補修授業を毎晩続けていた。教職を去っても教え子に出会うと異口同音に「先生には世話になって」が聞かれたものだ。私はそれが 当然のことと聞いていたのだが、人生をあるき始めると、その生き方を貫き通すのには強烈な意思の裏付けがなくては出来ないと知ったものだ。 

昭和20年の敗戦で世の中の常識が反転して何が正義かがわからなくなって、社会主義に興味 もった私は当時の社会党に入り加計の活動家の前田睦夫さんの弟子になった。党の会合で労働組合の活動家の議論(幹部連は大卒のインテリが多かったね)を聞く機会が増えて、我が身の知識の欠落を痛感、アダム・スミスの国富論、マルクスの資本論、など付け焼き刃で勉強したもんだ。ところがこれらの経済のバイブルと云う理論も現実の経済の中で四苦八苦の見浦家の実情からは理解ができなくてね、社会党の代議士大原亨先生の末端の部下となって現実の政治を教えてもらったんだ。 

あの時、一度だけ前田先生の熱心さにまけて町議選に立候補したことがある。とは言え実際の地方政治には知識がなかったので、当時、猛烈なインフレで物価の値上がりに庶民が悲鳴を上げていた頃で、このインフレで誰がどんな仕組みで庶民の懐からお金を巻き上げているか、仕組みを話して歩いたんだ。それが大変な人気になって街頭演説に行くと人っ子一人見えなくなる、行きががりでなどで選挙をするものではないな、友人に話したら「物陰を見ろ」と注意された、よく見 と家の影、物の後ろに人陰がみっしりだった。見浦の演説を聞いたと云うことがボスに知れたら、どんな圧力が掛かるか判らないと、隠れて聞いてくれたのだと云う。それを見た味方の候補者がこのまま行ったら自分が危うくなると方針を替えたのたのだとか。選挙は住民の利益を守るためにあると信じていた私だが、保守も革新も自分のために行動すると知って距離を置くことにしたんだ。いい勉強だった。

でも選挙後色んな所で叱られたな。一つは見浦先生の子供だと云うことを言わなかったこと、 2つ目は選挙で見えた人間の裏側が嫌いで、それきり政治の表側には立たなかっこと。 40年も 経って町の反対側の二郷で1度きりで選挙に出なかったと叱られたことなど、見えない信頼は大きかったようだ。政治は勉強はするものだが人間の裏側が見えてしまうのが恐ろしい。大原先生には政治を辞めるなと引き止めていただいたが私の住む世界ではなかった。先生が「農業にも人がいるからな」弟子を辞める許可を貰ったのは16年後、いい勉強にはなったがね。 

遠い遠い70年も昔の思い出、選挙があるたびに自分の判断の正しかったことを痛感するんだ。選挙は清濁併せ持つ度量がないと住む世界ではない、それには強烈な意思がいる。一度きりの私の人生をそれにかける勇気はなかったね。そして農業に人生をかけて、少しは自信をもって人に 話せる世界を持てた、そんな遠い遠い過ぎた日の決断を思い出したんだ。

 一度きりの人生、貴方も最良の道を歩かれることを心から願っている。 

2021.3.3 見浦哲弥 

2023年2月19日

運転免許終了

2021.2.21 運転免許の更新をしなかった。まだ運転は出来る自信はあったが老人の運転事故の報道が多発、老化で能力の低下は私も自覚していて、50キロ以上のスピードは出さないことにして注意を払ってきたのだが、やはり周囲の人からすれば90歳の老人が公道を走行するなど危険そのものと反対。その上老人の運転事故で死亡者続出と報道されれば、やはりこの あたりで自動車運転は止めるべきと、自分に言い聞かせたんだ。

とはいえ、20代中頃にマツダの軽三輪トラックを買って院てて免許を取りに練習所に通ったのが始まりで、運動神経が劣る私には免許取得は大きな障壁でね、何度も通っては落ちて自信を失っ たものだ。自慢するわけでは無いが、運動神経は人並み以下で周囲の連中には笑い話の種になっ た私の弱点の一つだった。

あれから65年、新車に乗ったのは親父さんが直腸癌で看病に広大病院と小板との掛け持ち往復をしたときだけ、最初は軽三輪で往復したのだが、故障の多い中古車では身動きが出来なくてね、有り金をはたいてパプリカの新車を買った、新車を買ったのは後にも先にもこれl台、空冷の2気筒で27馬力、シートはハンモック、暖房もラジオもなくてただ走るだけ、でも信頼性の高い車で、よく走ったね。ドライブに見学にと家族で走り回った。それ以後は、トラックから乗用車、軽自動車、トラック、ダンプと様々な車を乗り回したが中古車のみ、随分ひどい車もあっ て、牛の出荷の途中で故障、騙し騙し辛うじて家までたどり着いたこともあった。 

それでも、車のおかげで西日本だけだが多少は見聞が広がって、完全な井の中の蛙にはならなかった。私の置かれた人生では望外の見聞を得られたと満足している。

その運転免許証を失効させるのには流石に惜しくて迷いはあったね。しかし、最近のニュースに高齢者の引き起こす自動車事故の多発で死傷者の報道が話題になると、他人事では無くなって 免許証の失効を決意したんだ。

60何年に及ぶ運転歴の中で人身事故は起こさなかったから、それで良しとしなければと思っている。 しかし、小板の集落から外部へと思っても自動車の足がない今、随分と世界が狭まった感がある。私の持ち時間は後少しだが世界が自宅の周りだけになった。時折、親父さんのお墓の前で 「親父、まだ生きてるぞ」と報告する生活だけ、明日は判らないぞと思いながら。 

貧乏と言いながら自動車のおかげで多少だけれど世間が広がった。いい人生だった。もっとも現在はコンピュータを通り越して皆さん電子機器を手足のように使いこなす、私から見ると異次元世界、ま、自家用車の時代に行き合わせただけでも幸せとしなければと思うことにしている。 

大学に入学する孫の明弥のところに学校でコンピュータは必須だから購入して来るようにと通知がきた。 ザラ紙につけペンで勉強した私には現在は異次元である。

免許返納の老人が60年余りも恩恵に浴した運転免許証、失効の寂しさは思い出で補うことに している。

2021.2.21 見浦哲弥

2023年2月18日

小さな牧場の小さな肉屋

2021.1.16 見浦牧場は中国山地の芸北地区にある小さな小さな牧場の一つである。この牧場を開設して60年余りになる。色々な経緯があって生涯を畜産の和牛飼育にかけようと思ったのは、まだ若かった28歳。開設時の苦労も昔話になって経緯を知る人は皆無になった。

 私は人生は出会った人々の生き方に影響を受けると信じている。七塚原牧場の現場の人達は少年の疑問に親切に答えてくれた、黒ボク(火山灰土)の話(黒い土は豊かな土と信じていた) 、馬鈴薯の2度作り、ラミー(西洋麻)収穫から機械加工まで、燕麦という飼料麦の栽培と収穫、西洋式の畑の除草の方法。私の生き方が変わったのは、あの七塚原の半年の体験からだ。

もっとも新庄にあった農兵隊山県支部では極限まで追い込まれて、絶望したことも何度もあった。そんな時に辛うじて耐えることが出来たことは両親の教えだと感謝している。 

しかし、世の中は競争だとは云うものの、対立相手の足を引っ張って勝つと云う手段を取る連中もいて一筋縄では行かないものだ。そんな連中が存在する社会の中で自分の信念に忠実に生きるためには、逆境に如何に耐えるかを学習するしか方法がない。逃げ道はなかった、辛かったと感傷にふける時間ももったいない、人生は短くて1度きりのなんだと痛感する今日この頃ではね。 

しかし、没落地主の子倅が牧場経営を目指すなどは目標が大きすぎる、小板の大多数の人達が百姓を知らない見浦が成功するわけはないと思い込んだのも当然だった。特に資産家を自認する小金持ちは高校にも行けんやつが生意気にと批判する、その舌の根が乾かないうちに、助けろと やってきた、連中の牛に事故が起きて獣医さんが間に合わないとなると「なんとかしてくれ」とやってくる、そして応急手当が成功すると「ありゃーまぐれじゃー」と批判、その舌の根が乾かないうちに次回もとやって来る。生活に追われている貧乏な人達は誠実で金持ちがインチキとくれば結果は当然のところに帰結する、但し、徐々にね。

とは言え見浦牧場も失敗が無いわけで はない、次々と死亡する牛が出て涙も出なかった事もあった。が負けず嫌いだけが取り柄の私 だ。原因の追求のためには努力を惜しまなかった、これだけは胸が張れる。

 何度か危機があったが牛の下痢O157に感染して衰弱した時は出入りの獣医さんが「今度は見浦さんは危ないで」と話すほど体力が低下した。流石の私も音をあげて進学を予定していた三男の和弥に家に帰るように依頼したのだ。が、彼の人生の可能性を揃み取った責任を私は忘れることが出来ない。 

幸運にも彼に好意を寄せていた亮子君が追いかけてきてくれて人生をともにしてくれた。苦難の見浦家には最大の贈り物だった。しかも3人の男の子にも恵まれた。

そこへ長女の裕子さんの府中ニュースで働いていた三女の律子さんが帰ってきて見浦の牛肉を売ると、道端に小さな加工場とお店を建設、ゼロからの加工販売を初めたんだ。律子は私の子供の中で最高に意思が強く行動的、こうだと目標を決めたらひたすらに走り出す、男尊女卑ではないが男だったら 成功者の一員に数えられたろうな。見浦牛肉のみを仕入れて加工をして、宣伝をして、販売に飛び回って。あれから何年経ったろうか、見浦牛肉の味の良さが徐々に広がって、遠くからのお客さんも来始めて、思いの外の好評で。

昔何度か行った試食肉の頒布で「子供が脂まで食べた」と云う評価に支えられて追求してきた見浦牛、霜降りの神戸牛の後追いをしないで独自路線を歩いたことは正しかったと思っている。牛肉は食品、商品である以上、見た目も必要だが、その前に安全で美味しいことが必要と牛をできるだけ自然の中で育て、外見の等級でなくて小板の自然に適応した牛を追い続けた。そして外部からの遺伝子の導入は雄牛の精子のみの方式を6 0年以上続けて作った見浦牛は独特の味を持っているのでしょうね、その価値を純真な子供の舌が教えてくれた。今その味を理解したお客さんが遠方からお店に訪れてくれる、有り難いことです。

小さな小さな見浦牧場、その中で育てた大きな夢、それをお客さんが認めてくれた、それが私の勲章なんです。それは家族の協力と私の小さな願いに協力していただいた多くの人々の善意の結果だと思っています。

有難うございました、心から感謝をしています。

2021.2.21 見浦哲弥

旅立ち

 あと17日で90歳になる。最近の体力低下は著しくて思いの1/10にも達しない。こんな状態だから明日の目覚めがあるのか、ないかは全く不明だ。だが恐怖はない、中々人間はよく出来て いると変な感心をしているところだ。

ともあれ90歳には何とか辿り着けそうだが、こればかりは予測どうりにはゆきそうもない。S さんの死亡に引き続いて、松原からT馬君、F雄君達、下級生の計報が届いた。皆さんは私の下 級生、それでも二人とも80歳は越えているはず、近しい人の訃報が次々と届いて寂しい限りで ある。

悲しいことだが、これは生き物の宿命、悔やんでも仕方がない。与えられた時間を全力で生き抜いて爽快感を味あう、これしか無い。それで自分に問いかける、今日一日全力をつくしたかと。 ところが私も生物だから老化には抗えない、そうボケである。しまったあそこは、こうすべきだった、これはああすべきだったと後悔することが少しずつ増えてきて、無用な反省で時間を費 やす、そして痛感する、私は平凡な人間なのだと。

しかし、逆境で思うように行かないと飲酒に溺れる人を何人も知っている。彼らが人生の終わり に失った時間を振り返って何を思ったか、意地悪では無いが知りたいものだ。帰らない時間を惜しむ愚はおかしたくないものだが、凡人の悲しさ、それは私にもある。 

しかし、生身の人間が90歳まで生きると様々な出来事があった。思うことの何分の一も出来なかったが、それでも身近な知人達の生き様に比べれば、それは貴重な時間になった。 2度と手に することのない宝石の時間に、そして今旅立ちの前の最期の時を慈しみながら振り返っている。

はからすも与えられた貴重な時間、 1 0 0%有効に使ったとは言えないが、私にはこれ以上のことは出来なかった。優れた家族に恵まれた幸運をしてもこれ以上のことは出来なかった。 でも素晴らしい人生だった、俺は全力を尽くした胸を張って言える。 

いい家内に恵まれ、素晴らしい子供たちの父親になれた。親父どんとカーチャンに5 5点ぐらい は欲しいと言えるのではないかと思っているのだが。

2021.2.4 見浦哲弥

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